ナチズムの時代
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民族性政策(ドイツ語版)に従って、いわゆる大ドイツ帝国を創設するべく、ナチは特に占領下東部地域で他の諸文化に圧力を加える政策を講じ、追放、または一部では絶滅(ユダヤ人)を試みた。主要な目的には、文化的、言語的、人種的に均一なドイツ人定住地域を創設することにあった。 この目標を追求するためは様々な措置が講じられた。 地名改称「外国的地名のドイツ語化(ドイツ語版)(Verdeutschung fremdländischer Ortsnamen)」は、ナチス・ドイツでは帝国科学・教育・国民教育省(ドイツ語版)の指揮監督の下に行われた。まず対象とされたのが特にスラヴ的な地名で、地域はシュレージエン、東プロイセン、西プロイセン、ラウジッツであった。またザールラントのフランス的な地名(ザールルイを「ザールラウテルン」)も同様であった。改称すべき地名は各行政管区庁が提案し、言語学者、大学講師、そして史料保管者からなる専門家委員会が、ゲルマン化した新名称を提出した。シュレージエンでは既に1934年から、東プロイセンでは1937年8月から1938年7月にかけて実施されたが、東プロイセンでは複数の郡で最大70%の村落がこの措置の対象となっていた。後に占領した地域、例えばヴァルテラントでは(ウッチを「リッツマンシュタット」)、新名称は通常、下級機関が決定した。第二次世界大戦後、新たにポーランド領(「回復領」)、ソヴィエト連邦領(カリーニングラード州)となった地域では、地名がスラヴ的なものに変更され、次第に元来のドイツ語名称が完全に現地語化された。ソヴィエト占領地域、または東ドイツでは、ゲルマン化された地名は特にブランデンブルクで大多数が維持されたが、ザクセンでは大部分が旧来の名称に戻された。 出版物、報道、学校、教会でのドイツ語以外の言語の禁止 特に占領下のポーランドでは、高等教育機関は閉鎖され、ポーランド語を話す教養エリートは迫害され、一部は例えば強制収容所で殺害された。特にクラクフ大学の教授が「特別行動クラカウ(ドイツ語版)」で殺害されたことは良く知られている。さらにソヴィエト連邦内の占領地(オストラント帝国全権委員領(ドイツ語版)、ウクライナ帝国全権委員領(ドイツ語版))でも学校、大学が閉鎖された。ラウジッツでは、特にソルブ人の言語とアイデンティティの伝承者と見なされたソルブ人の教師や牧師は、ドイツ語圏に異動させられ、ドイツ人に代えられた。 ポーランド文化の保持に関係するポーランド人は、絶滅収容所に移送された。ソヴィエト連邦内の占領地でも同様であった。 ポーランド人、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人の子供は、家族から引き離され、文化的にドイツ人にするべくドイツ人の家庭に送られた。 「民族ドイツ人事業所」および「レーベンスボルン」も参照 人種イデオロギーに従い、「東方生存圏」を獲得する一環として、ポーランド人、ロシア人、白ロシア人、ウクライナ人のほとんどは再定住させる予定であった。一部は征服した東部地域の農場労働者として、一部はウラル山脈の彼方へである。また西スラヴ人、バルト人は、ナチズムの理解では、人種的に価値ありとされ、「ゲルマン化」される計画であった。このためにドイツ語化された姓名を与えられ、ドイツ民族リスト(ドイツ語版)に記載され、ドイツ国籍を取得した。 ヒトラーは『我が闘争』ではっきりと述べている。 民族性、もっと言えば人種は、言語ではなく、むしろ血に基づくものである。そのため、ゲルマン化について口にするのであれば、こんな過程で敗者の血を変えられるようになってからであろう。しかしそんなことは不可能である。 そのためナチの政策は、言語的な「ゲルマン化」だけでなく、ドイツ民族以外の諸民族(ポーランド人、ロシア人など)の抑圧、または「ドイツ化(Eindeutschung)」または「北方化(Aufnordung)」も目的としていた。 「東部総合計画」および「飢餓計画(ドイツ語版)」も参照
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