ぜつめつ‐しゅうようじょ〔‐シウヨウジヨ〕【絶滅収容所】
絶滅収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/27 21:26 UTC 版)
絶滅収容所(ぜつめつしゅうようじょ、英: Extermination camp、独: Vernichtungslager)とは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ルブリン強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所、以上6つの強制収容所を指す言葉である。絶滅収容所を正式名称とした施設は存在せず、また、当時のドイツ政府の公式文書に絶滅収容所という言葉は存在しない。
- ^ Doris Bergen, Germany and the Camp System, part of Auschwitz: Inside the Nazi State, Community Television of Southern bitch California, 2004-2005
- ^ Dictionary definition on laborlawtalk.com
- ^ Diary of Johann Paul Kremer
- ^ Overy, Richard. Interrogations, p 356-7. Penguin 2002. ISBN 0-14-028454-0
- ^ 1944年から1945年の間にSSと警察は少なくとも130万人をアウシュヴィッツへ送り込んだと推定される。そのうち110万人が収容所当局によって殺された[1](アウシュヴィッツの他の施設で殺された人物の数も含む)。
- ^ [2]
- ^ 1942年3月から12月にかけて、ドイツは約434,500人のユダヤ人と人数不明のポーランド人やロマ(ジプシー)をベウゼツに輸送し、そこで殺戮した。[3]
- ^ ドイツとその協力者は、合計で少なくとも167,000人をSobiborで殺戮した。[4]
- ^ SSと警察は全部で少なくとも152,000人をヘウムノで殺戮した。[5]
- ^ 最近の研究では、マイダネクにおける推定死亡者数を抜本的に下方修正している。ルブリンのPawel P. Reszkaが2005年12月12日付「ガゼタ・ヴィボルチャ」紙で発表した小論 "Majdanek Victims Enumerated" (アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館のサイトに再掲された)によると、ルブリンの研究家トマシュ・クランツが最近この数を論証し、マイダネク博物館はこの数を信頼できると見ている。以前はこれよりも多く見積もられていた。ポーランドのナチス犯罪捜査中央委員会の判事だったZdzislaw Lukaszkiewiczが1948年に出版した本では36万人、また元マイダネク博物館職員Czesaw Rajca博士による1992年の論文では23万5000人と見積もられていた。
- ^ ホロコースト研究サイトYad Vashem websiteの "Maly Trostenets" の項を参照。
- ^ 追悼 J.‐C. プレサック
- ^ Der Holocaust Die Argumente Jürgen Graf P110-P111
- ^ ヤド・ヴァシェムのホームページによると、2007年1月現在、6,004人のポーランド人が表彰されている。
- ^ Höss , Rudolf (2005). “I, the Commandant of Auschwitz,” in Lewis, Jon E. (ed.), True War Stories, p. 321. Carroll & Graf Publishers. ISBN 0-7867-1533-2.
- ^ ハッケンホルト少尉はエンジンを動かそうと懸命に努力していたが、エンジンは回らなかった。ヴィルト大尉がやってきた。私が不運に見舞われたことを彼が気にしているのが見て取れる。ともあれ私は待った。私のストップウォッチは50分を示し、やがて70分を示したが、それでもディーゼルは動かなかった。ユダヤ人たちはガス室の中で待っている。無駄なことだ。彼らのすすり泣きが聞こえ、ファネンシュティール教授が板戸の窓を覗きながら「まるでシナゴーグだ」といった。腹を立てたヴィルト大尉が、ハッケンホルトのウクライナ人助手の顔を12、3回鞭打った。ストップウォッチが2時間49分を示したころ、ようやくディーゼルが動き出した。この時点で、4つの部屋すなわち45立方メートル×4の空間に閉じ込められた750人×4のユダヤ人たちが生きていた。それから25分が経過。少しの間だけ室内を電灯で照らしたため、多くが既に死亡していることが窓から窺われる。28分、生存者は若干名を残すのみとなった。そして32分目に全員死亡。……歯科医たちが金の義歯や橋義歯、歯冠などをカナヅチで打って鍛造していた。ヴィルト大尉もその中にいた。こうしたことが彼の本領であるらしく、私に歯の詰まった缶を見せびらかして彼はいった。「見たまえ、この金の重さを! 昨日と一昨日だけでこれだ。我々が毎日どれだけのものを見つけ出しているか、君には想像もつかんだろうな。ドルにダイヤ、それに金だ。君にもそのうち分かるとも!」
- The Nazi Sourcebook: An Anthology of Texts. Routledge. (2002). pp. 354. ISBN 0415222133
- ^ Höss, pp. 321-322.
- ^ Höss, pp. 322-323.
- ^ Höss, p. 323.
- ^ Höss, p. 324.
- ^ Höss, pp. 320, 328.
- ^ Höss, pp. 325-326.
- ^ Höss, p. 328.
- ^ Bresheeth, Hood & Jansz (1994). The Holocaust for Beginners. Icon Books. ISBN 1-874166-16-1
- ^ A. L. Smith, Die "Hexe von Buchenwald", Böhlau, Cologne 1983, p. 227
- ^ Sereny (2000). The German Trauma. ISBN 0-71-399456-8
- ^ Lawrence Douglas (1998). “The Shrunken Head of Buchenwald: Icons of Atrocity at Nuremberg”. Representations 63 (Summer, 1998): 40-41 04-03-2007閲覧。.
- ^ Lawrence Douglas (1998). “The Shrunken Head of Buchenwald: Icons of Atrocity at Nuremberg”. Representations 63 (Summer, 1998): 40 04-03-2007閲覧。.
- ^ “The Chorus and Cassandra” by Christopher Hitchens
- ^ “余生を送っていた101歳の「ナチス戦犯」に禁錮刑、ドイツ司法機関が懸命の追跡 親衛隊の大物はみな死亡、残るは下級隊員”. 47NEWS (2022年12月11日). 2022年12月12日閲覧。
- ^ Gordon J. Horwitz, "Places Far Away, Places Very Near: Mauthausen, the camps of the Shoah, and the bystanders" in Omer Bartov, ed. The Holocaust.
絶滅収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:13 UTC 版)
「強制収容所 (ナチス)」の記事における「絶滅収容所」の解説
詳細は「絶滅収容所」を参照 ユダヤ人とジプシー(ロマ民族)の民族絶滅を狙って作られた殺戮工場たる収容所は絶滅収容所(Vernichtungslager、ファアニヒトウングスラーガー)と呼ばれる。 最初に稼働した絶滅収容所はヘウムノ絶滅収容所である。この絶滅収容所は国家保安本部によって運営され、1941年12月からガス殺が開始された。 一方、ルブリン親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクは、後に「ラインハルト作戦」と名付けられるポーランドユダヤ人絶滅作戦の執行のために三大絶滅収容所の建設を行った。1941年11月からベウジェツ絶滅収容所の建設が開始され、1942年3月半ばからガス室が稼働した。続いてソビボル絶滅収容所の建設が開始され、1942年4月末に稼働。最後にトレブリンカ絶滅収容所が1942年5月末から建設が開始され、7月半ばに稼働している。この三つの絶滅収容所は「ラインハルト作戦」のための三大絶滅収容所として機能し、刑事委員長クリスティアン・ヴィルトによって監督された。ヴィルトの部下たちが三大絶滅収容所に配されていた。なおヴィルトは安楽死計画(T4作戦)に携わっていたため、ヴィルトの部下たちも安楽死計画参加者が多かった。 ヘウムノでは最低でも15万人、ベウジェツでは55万人、ソビボルでは25万人、トレブリンカでは最低73万人 が虐殺された。 ポーランドのユダヤ人社会がほぼ壊滅すると、三大絶滅収容所は1943年代に早々に閉鎖され、植林などで証拠隠滅作業が行われた。その後はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所やマイダネク強制収容所(この二つについては上の節を参照)、ヘウムノ絶滅収容所などが絶滅収容所として機能し、これらの収容所はドイツ軍の戦線後退でソ連軍が同地に到着するまで存続した。
※この「絶滅収容所」の解説は、「強制収容所 (ナチス)」の解説の一部です。
「絶滅収容所」を含む「強制収容所 (ナチス)」の記事については、「強制収容所 (ナチス)」の概要を参照ください。
絶滅収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 09:44 UTC 版)
詳細は「絶滅収容所」を参照 ドイツ国内には、すでに戦前からダッハウやザクセンハウゼンなどの強制収容所が存在したが、それらの収容所は当初は比較的小規模であり、政治的敵性分子や西側の捕虜などが比較的多く収容されていた。のちに収容者たちの労働によって拡張され、ユダヤ人だけでなく、ロマ人その他の人々が雑多に収容され、収容者はのべ20万人を超えることになる。特にダッハウは薬草農園労働と生体医学実験で有名である。同地には43年に「バラックX」と呼ばれる死体焼却炉付きガス室が建設されたが、完成せず実用には至らなかったと言われる。 絶滅を目的とした収容所としては、1942年からアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所・トレブリンカ強制収容所・マイダネク強制収容所・ベウジェツ強制収容所・ソビボル強制収容所などの収容所が次々と完成し、ゲットーや占領地域から多くのソ連兵捕虜・ユダヤ人が送り込まれた。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所には大規模な軍需工場が付置され、多くの付属収容所を従えた一大生産基地を形成していた。その他の多くの収容所は僻地に建設され、収容者数も多くなかった。ラインハルト作戦と呼ばれるポーランド=ユダヤ人絶滅作戦に沿って作られた収容所では、ほぼ全員が直接ガス室に送り込まれたとされる。とくにトレブリンカ強制収容所の犠牲者は群を抜いて多く、およそ90万人がそこで殺されたという。
※この「絶滅収容所」の解説は、「ホロコースト」の解説の一部です。
「絶滅収容所」を含む「ホロコースト」の記事については、「ホロコースト」の概要を参照ください。
「絶滅収容所」の例文・使い方・用例・文例
- 絶滅収容所のページへのリンク