イラン・イスラム共和国時代とは? わかりやすく解説

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イラン・イスラム共和国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 21:20 UTC 版)

東クルディスタン」の記事における「イラン・イスラム共和国時代」の解説

1979年2月イラン革命によってパフラヴィー朝滅亡しルーホッラー・ホメイニー中心にイラン・イスラム共和国建国された。クルド人政党ホメイニ協力しシャー追放した。しかし、新政府国境越えて存在するクルド人新国家脅威になると考え自治権与えなかった。同時にスンニ派対すシーア派優越憲法に定めたクルド人代表のアブドゥル・ラフマン・ガッセムロウ(英語版)は、新憲法創る専門家会議参加拒否されクルド人意見憲法に反映させられなくなった。そして、イラン・クルディスタン民主党(KDPI)とイラン・クルディスタン・コマラ党(英語版)を中心に武装したクルド人革命軍衝突したホメイニ東クルディスタン独立認めずジハード宣言した1980年春、アボルハサン・バニーサドル大統領政府軍命じマハーバードサナンダジュ、バーベ(英語版)、マリーバーン等、殆どのクルド人都市奪った。サデグ・ハルハリ(英語版最高裁判所長官は、何千人ものクルド人男性処刑したイスラム革命防衛隊クルディスタン政府管理下の置こう戦い1万人以上のクルド人殺害した1990年代になると、度重なる政府からの弾圧反発してクルド民族主義英語版)が盛んになる1996年12月2日スンニ派の主要聖職者のMulla Mohammed Rabieiの死を受けてスンニ派クルド人政府軍衝突した衝突3日続き周辺地域広がった1997年5月モハンマド・ハータミー大統領就任しクルド文化と歴史称賛したが、クルド人要求は主にクルド語有った大統領第一期でアブドラ・ラメザンザデー(英語版)を初代東クルディスタン知事指名した第二期で、大統領2人シーア派クルド人入閣させた、国政におけるクルド人存在感拡大した1999年2月クルド民族主義者マハーバードサナンダジュオルーミーイェ大規模デモ起こし政府への反対アブドゥッラー・オジャラン支持訴えたアブドゥッラートルコクルディスタン労働者党(PKK)の元党首で、トルコ政府から終身刑受けたイラン政府はこのデモ武力鎮圧人権団体によると少なくとも20人が殺害された。 2003年7月18人の法学者が「首都テヘランには約100万人のスンニ派(殆どがクルド人)が暮らすが、スンニ派モスク1つも無い事」と、「スンニ派モスク建設許可下りない事」を非難した2005年7月9日マハーバードクルド人野党活動家のシヴァン・カデリ(英語版)と2人クルド人男性イラン軍射殺された。続く6週間複数クルド人都市イラン南西部東部スィースターン・バルーチェスターン州暴動抗議起きた2006年3月13日、カデリの担当でもあった著名な人権派弁護士のサレー・ニクバクト(英語版)が、警察官がカデリを違法に殺害した発表した先立って政府はカデリの「道徳と金融への違反」を訴えていたが、サレー全ての疑惑否定した2008年国際人権救援機構イランクルド人が「社会的政治的文化的経済的に差別され抑圧されている」と発表したその結果イラン多く人権活動家イラン政府クルド人への暴力注目するようになったが、機構は「その事更なる暴力呼び得る」とも述べた21世紀初頭には多くクルド人活動家作家教師不当に逮捕され死刑処されている。クルディスタン自由生活党(英語版)のように武力闘争に及ぶクルド人もいる。 2009年2月4日アメリカ合衆国財務省Stuart A. Levey次官は、自由生活党を「トルコクルディスタン労働者党繋がり有る」としてテロ組織指定した11月政府国際社会からの助命嘆願無視して無実クルド人活動家のエフサン・ファタヒアン(英語版)に死刑執行した2010年1月政府クルド人のFasih Yasamaniを拷問し、不当に処刑した5月9日政府同様にAli Heydarian、Farhad Vakili、Mehdi Eslamian、Shirin Alam Hooli、ファルザド・カマンガル(英語版)を政治犯として不当に処刑した。彼らは拷問によって自由生活党への所属自白させられ裁判を受ける事も弁護士と話す事も出来なかった。機構はこれらの処刑を「少数派クルド人対す明白な威嚇」と述べた自由生活党も被害者達との繋がり否定している。政府遺体家族へ返還すら拒んだ5月時点で、死刑判決受けたクルド人は後16残っており、そのうち公正な裁判受けた考えられる者はひとりもいない。

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イラン・イスラム共和国時代(1979年~)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:01 UTC 版)

日本とイランの関係」の記事における「イラン・イスラム共和国時代(1979年~)」の解説

1979年10月江崎真澄通商産業大臣日本現役閣僚として初め革命後のイラン訪問1983年8月安倍晋太郎外務大臣日本現役外相として初め革命後のイラン訪問1984年4月アリーアクバル・ヴェラーヤティー外務大臣革命後のイラン現役閣僚として初め訪日1989年は、1月昭和天皇崩御し6月ホメイニー師が逝去するという日本イラン両国において大きな悲しみ襲ったであった同年2月、モスタファー・ミールサリーム(ペルシア語版、英語版副大統領大喪の礼弔問使節として訪日同年7月前月亡くなった最高指導者ホメイニー師の弔問使節として、藤尾正行自民党政調会長イラン訪問また、1990年明仁天皇即位の礼に際してモアエリ大統領顧問訪日している。 2000年10月イランの大統領モハンマド・ハータミー日本訪問した。これは革命後のイラン首脳としては初の訪日で、パフラヴィー朝時代含めると1958年皇帝来日以来の実に42年ぶりとなるイラン首脳訪日となった2004年8月橋本龍太郎元総理大臣が日本の首相経験者として初め革命後のイラン訪問した2012年4月鳩山由紀夫元総理大臣がイラン訪問。なお、平成時代1989年1月2019年4月)は一度現職日本総理によるイラン訪問が行われなかった。 2019年6月には安倍晋三総理現職総理として初め革命後のイラン訪問しその際ハサン・ロウハーニー大統領最高指導者アリー・ハーメネイーとも会談現職総理最高指導者会談したのは初である。なお、安倍自身は父の安倍晋太郎外相時代イラン訪れた際、秘書官として同行し当時大統領だったハーメネイー面会している。

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