イラン・イスラム共和国時代
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「東クルディスタン」の記事における「イラン・イスラム共和国時代」の解説
1979年2月、イラン革命によってパフラヴィー朝は滅亡し、ルーホッラー・ホメイニーを中心にイラン・イスラム共和国が建国された。クルド人政党はホメイニに協力し、シャーを追放した。しかし、新政府は国境を越えて存在するクルド人を新国家の脅威になると考え、自治権を与えなかった。同時にスンニ派に対するシーア派の優越を憲法に定めた。クルド人代表のアブドゥル・ラフマン・ガッセムロウ(英語版)は、新憲法を創る専門家会議に参加を拒否され、クルド人の意見を憲法に反映させられなくなった。そして、イラン・クルディスタン民主党(KDPI)とイラン・クルディスタン・コマラ党(英語版)を中心に、武装したクルド人と革命軍が衝突した。ホメイニは東クルディスタンの独立を認めず、ジハードを宣言した。 1980年春、アボルハサン・バニーサドル大統領は政府軍に命じ、マハーバードやサナンダジュ、バーベ(英語版)、マリーバーン等、殆どのクルド人都市を奪った。サデグ・ハルハリ(英語版)最高裁判所長官は、何千人ものクルド人男性を処刑した。イスラム革命防衛隊はクルディスタンを政府の管理下の置こうと戦い、1万人以上のクルド人を殺害した。 1990年代になると、度重なる政府からの弾圧に反発してクルド民族主義(英語版)が盛んになる。 1996年12月2日、スンニ派の主要聖職者のMulla Mohammed Rabieiの死を受けて、スンニ派クルド人と政府軍が衝突した。衝突は3日間続き、周辺地域に広がった。 1997年5月、モハンマド・ハータミーが大統領に就任し、クルドの文化と歴史を称賛したが、クルド人の要求は主にクルド語に有った。大統領は第一期でアブドラ・ラメザンザデー(英語版)を初代東クルディスタン知事に指名した。第二期で、大統領は2人のシーア派クルド人を入閣させた、国政におけるクルド人の存在感は拡大した。 1999年2月、クルド民族主義者はマハーバードやサナンダジュ、オルーミーイェで大規模デモを起こし、政府への反対とアブドゥッラー・オジャランの支持を訴えた。アブドゥッラーはトルコのクルディスタン労働者党(PKK)の元党首で、トルコ政府から終身刑を受けた。イラン政府はこのデモを武力鎮圧、人権団体によると少なくとも20人が殺害された。 2003年7月、18人の法学者が「首都テヘランには約100万人のスンニ派(殆どがクルド人)が暮らすが、スンニ派モスクが1つも無い事」と、「スンニ派モスクに建設許可が下りない事」を非難した。 2005年7月9日、マハーバードでクルド人野党活動家のシヴァン・カデリ(英語版)と2人のクルド人男性がイラン軍に射殺された。続く6週間で複数のクルド人都市やイラン南西部、東部のスィースターン・バルーチェスターン州で暴動や抗議が起きた。 2006年3月13日、カデリの担当でもあった著名な人権派弁護士のサレー・ニクバクト(英語版)が、警察官がカデリを違法に殺害したと発表した。先立って政府はカデリの「道徳と金融への違反」を訴えていたが、サレーは全ての疑惑を否定した。 2008年、国際人権救援機構はイランのクルド人が「社会的、政治的、文化的、経済的に差別され、抑圧されている」と発表した。その結果在イランの多くの人権活動家がイラン政府のクルド人への暴力に注目するようになったが、機構は「その事が更なる暴力を呼び得る」とも述べた。21世紀初頭には多くのクルド人活動家や作家、教師が不当に逮捕され、死刑に処されている。クルディスタン自由生活党(英語版)のように武力闘争に及ぶクルド人もいる。 2009年2月4日、アメリカ合衆国財務省のStuart A. Levey次官は、自由生活党を「トルコのクルディスタン労働者党と繋がりが有る」としてテロ組織に指定した。11月、政府は国際社会からの助命嘆願を無視して、無実のクルド人活動家のエフサン・ファタヒアン(英語版)に死刑を執行した。 2010年1月、政府はクルド人のFasih Yasamaniを拷問し、不当に処刑した。5月9日、政府は同様にAli Heydarian、Farhad Vakili、Mehdi Eslamian、Shirin Alam Hooli、ファルザド・カマンガル(英語版)を政治犯として不当に処刑した。彼らは拷問によって自由生活党への所属を自白させられ、裁判を受ける事も弁護士と話す事も出来なかった。機構はこれらの処刑を「少数派のクルド人に対する明白な威嚇」と述べた。自由生活党も被害者達との繋がりを否定している。政府は遺体の家族への返還すら拒んだ。5月時点で、死刑判決を受けたクルド人は後16人残っており、そのうち公正な裁判を受けたと考えられる者はひとりもいない。
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イラン・イスラム共和国時代(1979年~)
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「日本とイランの関係」の記事における「イラン・イスラム共和国時代(1979年~)」の解説
1979年10月、江崎真澄通商産業大臣が日本の現役閣僚として初めて革命後のイランを訪問。1983年8月、安倍晋太郎外務大臣が日本の現役外相として初めて革命後のイランを訪問。1984年4月、アリーアクバル・ヴェラーヤティー外務大臣が革命後のイランの現役閣僚として初めて訪日。 1989年は、1月に昭和天皇が崩御し、6月にホメイニー師が逝去するという日本とイランの両国において大きな悲しみが襲った年であった。同年2月、モスタファー・ミールサリーム(ペルシア語版、英語版)副大統領が大喪の礼弔問使節として訪日。同年7月、前月に亡くなった最高指導者ホメイニー師の弔問使節として、藤尾正行自民党政調会長がイランを訪問。また、翌1990年の明仁天皇の即位の礼に際してモアエリ大統領顧問が訪日している。 2000年10月、イランの大統領モハンマド・ハータミーが日本を訪問した。これは革命後のイラン首脳としては初の訪日で、パフラヴィー朝時代を含めると1958年の皇帝来日以来の実に42年ぶりとなるイラン首脳の訪日となった。 2004年8月、橋本龍太郎元総理大臣が日本の首相経験者として初めて革命後のイランを訪問した。2012年4月、鳩山由紀夫元総理大臣がイランを訪問。なお、平成時代(1989年1月~2019年4月)は一度も現職の日本総理によるイラン訪問が行われなかった。 2019年6月には安倍晋三総理が現職の総理として初めて革命後のイランを訪問し、その際にハサン・ロウハーニー大統領、最高指導者アリー・ハーメネイーとも会談。現職の総理が最高指導者と会談したのは初である。なお、安倍自身は父の安倍晋太郎が外相時代にイランを訪れた際、秘書官として同行し、当時大統領だったハーメネイーと面会している。
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