イギリス議会での審議
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「メナセ・ベン・イスラエル」の記事における「イギリス議会での審議」の解説
1649年の清教徒革命では、市民階級の清教徒が「イスラエルよ、汝らの幕屋に戻れ!」を合言葉とした。清教徒革命は王室と癒着した教会への攻撃でもあり、クロムウェルはユダヤ教徒と非国教派を保護した。また、至福千年説が流行し、ユダヤ人を解放してキリスト教に改宗させることがメシア降臨の条件とみなされるようになった。清教徒の至福千年派は、ユダヤ人の改宗のためにユダヤ人をパレスチナに呼び戻すべきだと主張した。こうしたことから、クロムウェルの出自はユダヤ人ではないかと囁かれ、またクロムウェルはセントポール大聖堂を80万ポンドでユダヤ人に売却しようとしているという噂が流れた。 一方、非国教会の分離派は、イギリスの内乱は過去のユダヤ人迫害への天罰であるとみなし、メナセのユダヤ人イギリス入国請願運動を励ました。 オリバー・クロムウェルは、キリスト教を否定する者に寛容を貫くのは本末転倒であると退けながら、イギリス商業の保護と発展のためにユダヤ人国際ネットワークを利用することのメリットに理解を示した。またクロムウェルはスペインの植民地を奪取するための協力をユダヤ人マラーノから期待していた。 メナセは1655年9月の渡英に先立って「卑見(Humble Address)」を起草、シナゴーグの建設許可や、反ユダヤ法の改正を請求するとともに、ユダヤ人の商才、高潔な血統を強調、キリスト教徒幼児の殺害は中傷だと否定した。1655年11月、クロムウェルはこの請願を議会にかけたが、王党派は「王を殺した者が、救世主を殺した者と手を握った」と非難した。貴族マンモス伯はシナゴーグ建設案に不快感を示し、またロンドンでは傷痍軍人が「わしらも全員ユダヤ人になるしかあるまい」と噂し、商人は恐るべき競争相手と警戒し、聖職者は社会転覆の危険を見た。 イギリスは1650年から支配したスリナム植民地でユダヤ商人の権利を認めていた。 ユダヤ人歴史家Ismar Schorschは、メナセの請願が個人的な動機によるものであったのか、政治的なものであったのか宗教的な動機からは分からないとしている。また、イギリスがユダヤ人にとっての最終的な安住の地であるという考えは「イスラエルの希望」においても発見できず、後年になってイギリスの千年王国信奉者にアピールするために思いついたものではないかともいわれる 1655年、メナセはロンドンに到着した。メナセの不在中、アムステルダムのユダヤ共同体は、メナセの生徒であったスピノザを破門した。 ロンドンでメナセはHumble Addresses to the Lord Protectorを書いたが、ウィリアム・プリンの『ユダヤ人のイングランド移入に関する簡潔な異議申し立て(妨訴抗弁)』によって反論を受けた。 1655年12月、クロムウェルはホワイトホール会議(Whitehall Conference)を招集し、ユダヤ人召喚問題を議論した。議長の声明では、エドワード1世による1290年のユダヤ人追放は王の命令であり、正式な議会を通じてのものではなく、召喚を禁止する法はない、とされた。こうしてユダヤ人の条件が改善されたわけではなかったが、ユダヤ人受け入れが始まった。 作家ジョン・イーヴリンは1655年12月14日の日記で「今、ユダヤ人が許可された」と書いている。 プリンらの反論に対してメナセは Vindiciae judaeorum (1656)で反論した。
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