イカ天出演、メジャーデビュー、柳原の脱退(1989年 - 1995年)
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「たま (バンド)」の記事における「イカ天出演、メジャーデビュー、柳原の脱退(1989年 - 1995年)」の解説
1989年11月11日、吉祥寺のライブハウス「MANDARAII」での定例コンサートの後、ナゴムから発売されるLP「しおしお」のプロモーションを兼ねてTBS系深夜番組『三宅裕司のいかすバンド天国』に出演した。人気番組であったイカ天への出演はメンバー間でも意見が割れており、何度話し合っても結論は出ず(知久・石川は「出るべき派」で柳原・滝本は「出なくてもいい派」であった)、業を煮やした当時のマネージャーの女性が未承諾でデモテープを番組に送ったことで番組出演が決定された。キノコのような髪型・チャンチャンコ・下駄履き姿の知久や山下清を彷彿とさせる体型・服装の石川の個性的な容姿、キャッチフレーズの“かなしい気持ちはとっても不安定”を体現するかのような楽曲「らんちう」でインパクトを与えた。登場時のナレーションでも「また危ないのがやってきた」と紹介されている。この時期は“色物”にカテゴライズされるバンドの登場が目立ったことから、この回のスタジオには「イロものバンド撲滅キャンペーン実施中」という横断幕が掲げられていたが、たまは完奏を果たした。審査員の吉田建はオリジナリティを評価する発言をし(しかし「オリジナリティがあるのが良かったですね...」と発言したきり俯いてしまい、最終審査でも吉田はサイバーニュウニュウに投票している)、中島啓江は「“能ある鷹は爪を隠す”かもしれない」「涙出てきちゃった、それと同時に笑いも出てきちゃった」、グーフィ森は「変でしたね。こういうの分かるって言っちゃいけない、分からないんだけどいい」と評した。この回は番組史上初の外国人バンドTOKIO ROSEがチャレンジャー賞を有力視されていたが、これに競り勝って見事チャレンジャー賞を獲得、サイバーニュウニュウを審査員投票5対2で倒して14代目イカ天キングとなった。当時柳原の家にはテレビが無かったために番組のシステムすら把握しておらず、翌週も出演することもよく理解していなかった。 キングとなったたまは、2週目(11月18日放送分)にのちに大ヒットとなる「さよなら人類」を歌い、審査員7名全員の支持を獲得して、チャレンジャーの高校生バンドTRIDENTに圧勝。その後も3週目(11月25日放送分)には「オゾンのダンス」で坂本プロジェクトを、4週目(12月2日放送分)には「ロシヤのパン」でTimeless Childrenを下し、3代目グランドイカ天キングにリーチをかけた。5週目(12月9日放送分)に登場したのが、グラムロック・バンドのマルコシアス・バンプ(楽曲は「バラが好き」)である。彼らの演奏は審査員の絶賛を受け、圧倒的な差でこの回のチャレンジャーに選ばれた。キングとして迎え撃ったたまの楽曲「まちあわせ」は、最小限の楽器編成による短い楽曲で、マルコシアス・バンプの煌びやかで重厚な楽曲・演奏とは対照的であった。司会の三宅は「意外な曲」「五週目にこの曲で来ることはないのに」と評し、マルコシアス・バンプのボーカル・ギター担当の秋間経夫には「だってすごいんだもん」と言わしめた。たまの4人は勝ちを狙うつもりは一切なく、「勝っても負けてもどうせこれが最後」「ならば思い切り茶化そう」という理由で「まちあわせ」を演奏することにしたが、結果は審査員投票4対3でたまが制し、5週連続勝ち抜きを達成、第3代グランドイカ天キングの座に輝いた。このことについて後に石川は「流れっちゅうもんは怖い」と話し、知久も「いつも評価してくれない審査員の吉田建さんが俺らに(審査の札を)上げちゃった」と語っている。 メンバーはこれまでは音楽活動と並行して別にアルバイトや仕事をしていたが、たまの人気が沸騰したことから音楽活動に専念するため退職した。1990年、シングル『さよなら人類/らんちう』でメジャーデビューを果たした。宝焼酎「純アレフ」のCMソングに採用され、オリコン初登場1位、売上約60万枚を記録し、NHK紅白歌合戦への出場も果たす。バンドは「たま現象」と呼ばれる社会現象的な人気を獲得し、「たま現象」の語は1990年の『現代用語の基礎知識』にも収録された。複数の楽器を演奏し、大衆音楽的要素と前衛音楽的要素を兼ね備えていたことから、バンドをビートルズに擬する言説も存在する。また、1992年に友部正人との共作『けらいのひとりもいない王様』をリリースした。 1992年、所属事務所の契約更新をきっかけに、自分たちの表現を貫徹したいという意図から個人事務所「たま企画室」を設立し、レーベルも日本クラウンから東芝EMIに移籍した。この時期にはバンドブームも下火になり、「オゾンのダンス」以降は次第にヒットチャートやメディアに現れることもなくなっていったが、マイペースに活動を続けた。「曼荼羅」系列のライブハウスでの「たまの月例会」と称した月一回の定期ライブも行っていた(2002年1月まで)。また、ライブハウスや会館等のコンサートホールだけでなく、普段はライブの行われる事のない寺や酒蔵、洞穴と言った場所でもライブを行う「どこでもツアー」と称したライブツアーも実施した。1995年、自主レーベル「地球レコード」を設立し、6thアルバム『そのろく』をリリースした。石川によると、インディーズ・レーベルを立ち上げた背景には、レコード会社などが自主的に行っていた「放送禁止用語」の規制を回避する意図があったという。同年、初の海外公演としてニューヨークでのライブが開催されることと、異なる方向性の音楽を始めたくなった柳原の脱退が発表された。この年の初頭には柳原から他の3人に脱退の意思が伝えられていたという。このことについて石川は「喧嘩をして仲がこじれての脱退なら関係の修復などもできたかもしれないが、純粋に他のことがやりたくなってしまったのなら仕方がない」と考えていたという。同年12月24日に開催されたライブ「たまのお歳暮'951」を最後にソロ活動に専念するため柳原が脱退した。
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