イカ天出演、メジャーデビュー、柳原の脱退とは? わかりやすく解説

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イカ天出演、メジャーデビュー、柳原の脱退(1989年 - 1995年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 01:37 UTC 版)

たま (バンド)」の記事における「イカ天出演、メジャーデビュー、柳原の脱退(1989年 - 1995年)」の解説

1989年11月11日吉祥寺ライブハウス「MANDARAII」での定例コンサートの後、ナゴムから発売されるLPしおしお」のプロモーション兼ねてTBS系深夜番組三宅裕司のいかすバンド天国』に出演した人気番組であったイカ天への出演メンバー間でも意見割れており、何度話し合って結論出ず(知久・石川は「出るべき派」で柳原滝本は「出なくてもいい派」であった)、業を煮やした当時マネージャー女性が未承諾デモテープ番組送ったことで番組出演決定された。キノコのような髪型チャンチャンコ下駄履き姿の知久や山下清彷彿とさせる体型服装石川個性的な容姿キャッチフレーズの“かなしい気持ちとっても安定”を体現するのような楽曲らんちう」でインパクト与えた登場時のナレーションでも「また危ないのがやってきた」と紹介されている。この時期は“色物”にカテゴライズされるバンド登場目立ったことから、この回のスタジオには「イロものバンド撲滅キャンペーン実施中」という横断幕掲げられていたが、たまは完奏を果たした審査員吉田建オリジナリティ評価する発言をし(しかし「オリジナリティがあるのが良かったですね...」と発言したきり俯いてしまい、最終審査でも吉田サイバーニュウニュウ投票している)、中島啓江は「“能ある鷹は爪を隠す”かもしれない」「涙出てちゃった、それと同時に笑い出てちゃった」、グーフィ森は「変でしたね。こういう分かるって言っちゃいけない、分からないんだけどいい」と評した。この回は番組史上初の外国人バンドTOKIO ROSEチャレンジャー賞を有力視されていたが、これに競り勝って見事チャレンジャー賞を獲得サイバーニュウニュウ審査員投票5対2で倒して14代目イカ天キングとなった当時柳原の家にはテレビ無かったために番組システムすら把握しておらず、翌週出演することもよく理解していなかった。 キングとなったたまは、2週目(11月18日放送分)にのちに大ヒットとなる「さよなら人類」を歌い審査員7名全員支持獲得してチャレンジャー高校生バンドTRIDENT圧勝その後も3週目(11月25日放送分)には「オゾンのダンス」で坂本プロジェクトを、4週目(12月2日放送分)には「ロシヤパン」でTimeless Children下し3代目グランドイカ天キングリーチをかけた。5週目(12月9日放送分)に登場したのが、グラムロック・バンドのマルコシアス・バンプ楽曲は「バラが好き」)である。彼らの演奏審査員絶賛を受け、圧倒的な差でこの回のチャレンジャー選ばれた。キングとして迎え撃ったたまの楽曲まちあわせ」は、最小限楽器編成による短い楽曲で、マルコシアス・バンプ煌びやか重厚な楽曲演奏とは対照的であった司会三宅は「意外な曲」「五週目にこの曲で来ることはないのに」と評しマルコシアス・バンプのボーカル・ギター担当秋間経夫には「だってすごいんだもん」と言わしめた。たまの4人は勝ちを狙うつもりは一切なく、「勝って負けてもどうせこれが最後」「ならば思い切り化そう」という理由で「まちあわせ」を演奏することにしたが、結果審査員投票4対3でたまが制し、5週連続勝ち抜き達成第3代グランドイカ天キングの座に輝いた。このことについて後に石川は「流れちゅうもんは怖い」と話し、知久も「いつも評価してくれない審査員吉田建さんが俺らに(審査を)上げちゃった」と語っている。 メンバーこれまで音楽活動並行して別にアルバイト仕事をしていたが、たまの人気沸騰したことから音楽活動専念するため退職した1990年シングルさよなら人類/らんちう』でメジャーデビュー果たした。宝焼酎「純アレフ」のCMソング採用されオリコン初登場1位、売上60万枚記録しNHK紅白歌合戦への出場も果たす。バンドは「たま現象」と呼ばれる社会現象的な人気獲得し、「たま現象」の語は1990年の『現代用語の基礎知識』にも収録された。複数楽器演奏し大衆音楽要素前衛音楽要素兼ね備えていたことから、バンドビートルズ擬する言説存在するまた、1992年友部正人との共作『けらいのひとりもいない王様』をリリースした1992年所属事務所契約更新きっかけに、自分たちの表現貫徹したいという意図から個人事務所「たま企画室」を設立しレーベル日本クラウンから東芝EMI移籍した。この時期にはバンドブーム下火になり、「オゾンのダンス以降次第ヒットチャートメディア現れるともなくなっていったが、マイペース活動続けた。「曼荼羅系列ライブハウスでの「たまの月例会」と称した月一回の定期ライブ行っていた(2002年1月まで)。また、ライブハウス会館等のコンサートホールだけでなく、普段ライブ行われる事のない寺や酒蔵洞穴と言った場所でもライブを行う「どこでもツアー」と称したライブツアー実施した1995年自主レーベル地球レコード」を設立し6thアルバムそのろく』をリリースした石川によると、インディーズ・レーベル立ち上げた背景には、レコード会社などが自主的に行っていた「放送禁止用語」の規制回避する意図があったという。同年、初の海外公演としてニューヨークでライブ開催されることと、異な方向性音楽始めたくなった柳原脱退発表された。この年初頭には柳原から他の3人に脱退意思伝えられていたという。このことについて石川は「喧嘩をして仲がこじれて脱退なら関係の修復などもできたかもしれないが、純粋に他のことがやりたくなってしまったのなら仕方がない」と考えていたという。同年12月24日開催されライブたまのお歳暮'951」を最後にソロ活動専念するため柳原脱退した

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