アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年の意味・解説 

アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 06:52 UTC 版)

米英戦争のカナダ戦線」の記事における「アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年」の解説

アメリカ合衆国指導者カナダ簡単に奪えると見ていた。前大統領トーマス・ジェファーソンは、カナダ征服について楽観的に行軍するだけのこと」と言っていた。多くアメリカ人アッパー・カナダ移住しており、イギリスからもアメリカからも彼らはアメリカの側に付くと思われていた。しかし、そうならなかった。もう少し人口の多いローワー・カナダでは、イギリス帝国に強い忠誠心のある特権階級イギリス人から、またアメリカカナダ征服すると、プロテスタント英国化民主共和制および商業的資本主義の古い伝統壊されることを恐れフランス人特権階級から、イギリス支持されていた。フランス人住民は、アメリカ人移民入ってくることにより、良い土地減っていくことによる損失恐れていた。 1812年から1813年にかけての経験豊富イギリス軍戦い振りは、経験足りないアメリカ軍指揮官凌いだ地形的な事から、作戦は主に西部から始まったエリー湖周辺から、エリー湖オンタリオ湖の間のナイアガラ川近くから、およびセントローレンス川地域シャンプレイン湖から、これが1812年アメリカ軍始めた攻撃3つの焦点であったモントリオールケベック占領することによりセントローレンス川切り取ることが北アメリカにおけるイギリス死命を制するはずではあったが、アメリカ合衆国西部辺境から作戦始めた。これは、先住民族武器売って開拓者を襲わせていたイギリス対す戦争支持する人々西部多かったという事情にもよっていた。 イギリス軍は、ヒューロン湖セントジョゼフ島分遣隊が、アメリカ軍よりも早く宣戦布告知って1812年7月17日アメリカ重要な交易基地であったミシガン州マキノー島攻略して、緒戦重要な戦果上げた少数部隊で島に上陸しマキノー砦を見下ろすように大砲据えたアメリカ軍驚いて即座に降伏した。この緒戦勝利インディアン士気鼓舞でき、多数インディアンがアマーストバーグのイギリス軍の支援動いたアメリカ軍准将ウィリアム・ハルが主に民兵からなる部隊率いて7月12日デトロイトかカナダ領に入ったハルは、一度カナダの地に入ると、「名誉を。戦争危難お前達前にある」と言ってすべてのイギリス兵に降伏するよう宣言発したハルインディアンと共に戦ったイギリス軍捕虜は殺すと脅した。この宣言は却ってアメリカ攻撃対す抵抗強固にすることになったハル脅し掛けてはみたものの、マキノーのイギリス軍勝利知らせ接し、ブラウンズタウンの戦いとモンガゴンの戦いで補給線確保難しくなったと判断し、2,500名の部隊と共にデトロイト砦に引き返したイギリス軍アイザック・ブロック少将は1,200名の部隊連れてデトロイト攻略向かったブロックは偽の文書用意し、その文書アメリカ軍の手落ちるようにした。その文書にはデトロイト砦の奪取に5,000名のインディアン戦士がおればよいと書いてあった。ハルインディアンとその拷問頭皮剥ぎ脅威怯えたハルイギリス軍実際以上に兵力があるものと思いこみ8月16日戦闘もしないデトロイト砦を明け渡して降伏したブロックは、アメリカ軍将軍スティーブン・ヴァン・レンセリアが2回目侵略試みているエリー湖東端移動した。この時、アメリカ抗議していたイギリス枢密院令アメリカ貿易規制する布告)を放棄することで、プレボストが停戦実現できるかもしれない期待して採用した一時的休戦により、ブロックアメリカ領土侵すことはなかった。この休戦期間が終わると、アメリカ軍10月13日ナイアガラ川越えた攻撃行ったが、クィーンストン・ハイツの戦い手痛い敗北喫した。この戦いの間にブロック戦死したアメリカ軍職業意識戦争が進むにつれて改善されていったが、イギリス軍の指揮ブロック死によって大きく影響された。 1812年アメリカ軍最後試みは、ヘンリー・ディアボーン将軍シャンプレイン湖から北へ侵攻するというものだったが、アメリカ民兵アメリカ領から出ていくことを拒んだので失敗したアメリカ民兵とは対照的にカナダ民兵はよく働いたフランス系カナダ人合衆国内で紛争の種になっていた反カトリック立場をとり、アメリカ独立戦争イギリス為に戦った王党派アメリカ侵略強く抵抗した。しかし、アッパー・カナダ人口大半近年入植したアメリカ人であり、イギリス対す目に見える忠誠無かったアメリカ軍侵略同調する者もいたが、アメリカ軍イギリス対す忠誠心の強い者達から激し反攻を受けることになった

※この「アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年」の解説は、「米英戦争のカナダ戦線」の解説の一部です。
「アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年」を含む「米英戦争のカナダ戦線」の記事については、「米英戦争のカナダ戦線」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年」の関連用語

アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アッパー・カナダとローワー・カナダの侵略、1812年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの米英戦争のカナダ戦線 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS