アサル朝とは? わかりやすく解説

アサル朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/29 16:16 UTC 版)

アサル朝Atholl dynasty)またはダンケルド家House of Dunkeld)は、11世紀から13世紀まで続いたスコットランド王国王朝・王家。アサル領主家出身のダンカン1世を祖とする。




「アサル朝」の続きの解説一覧

アサル朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:23 UTC 版)

スコットランド王国」の記事における「アサル朝」の解説

殺されダンカン1世の子青年期までサクソン風に育てられサクソン好みアサル家マルカム・カンモーは、1054年マクベススクーン戦いで破り1057年ランファナンの戦い戦死させた。そして王位ケネス3世曾孫ルーラッハマクベス継子)に移ると、マルカムその4ヶ月後ストラスボギーでルーラッハ討ち取りマルカム3世として即位した。これ以降1290年までアサル王家支配することとなる。 マルカム3世は、サクソン王の血を引く王妃マーガレットとともにフューダリズム西欧封建主義)を推し進めたまた、宮廷習慣サクソン方式改め教会行事典礼伝統的なケルト式からローマ式に改革したマーガレットは、その功績から後に列聖された)。イングランドへはたびたび侵攻したが、1071年ウィリアム1世攻め込まれて、イングランドへ臣従誓い長男ダンカン(後のダンカン2世)を人質取られた。マルカム3世その後イングランドへ侵攻繰り返したが、1093年5度目イングランド侵攻において戦死したマルカム3世の弟であるドナルド・ベインはイングランド嫌いで知られ中・南部中心としたマルカム3世政治に不満を持っていた北・西部豪族たちに支持されて、マルカム3世長男ダンカン差し置いてドナルド3世として王位についたドナルド3世王位につくや、宮廷様式習慣ケルト式に戻した。翌1094年イングランド人質となっていたダンカンイングランド王ウィリアム2世援助を受け、王位奪還立ち上がったドナルド3世敗れてわずか7ヶ月王位奪われダンカンダンカン2世として即位した。しかし、マルカム3世以来イングランド臣従対す重臣たちの反発大きかった半年後、ドナルド・ベインは支持者ダンカン2世異母弟エドマンドたちと謀ってダンカン2世殺害し王位復帰してエドマンド共同統治行った。それに対してダンカン2世異母弟エドガー1097年イングランド王ウィリアム2世援助を受け、ドナルド3世廃位の軍を起こしドナルド3世捕らえて自ら王位についたエドガーは、イングランドに対して従順な姿勢をとる一方で1098年にはノルウェー王マグヌス3世屈服してキンタイアヘブリディーズ諸島といった西部領域ノルウェー領として認めたこうした弱腰外交のため、エドガーは「平和愛好者」と呼ばれたまた、彼はエディンバラ城スコットランド王王宮として使用した最初王として知られるエドガー生涯独身通し後継者として次弟アレグザンダー1世王位につかせた。 アレグザンダーは兄エドガー遺言通りスコットランド中部北部のみを直接統治し、弟デイヴィッドには南部統治させ、その他の地域領主任せきりであった。しかし、1115年頃に起きた北部マリ西部のマーンズでの反乱には徹底的な討伐行い、その過酷さから獰猛王(Fierce)と呼ばれることになったアレグザンダー1世イングランド王ヘンリー1世庶子シビラ王妃とし、イングランドとの関係を深めていった。アレグザンダーの妹マティルダはすでにヘンリー1世嫁いでおり、アレグザンダーヘンリー義兄であるとともに義理の子という関係にあったアレグザンダー宗教の面でもイングランド色を強めキリスト教の影響力がさらに強まっていった。当時スコットランドイングランド北部ヨーク大司教管轄にあったが、ローマ教皇こうした状況改めるように請願し、またセント・アンドリューズ司教独自に招致したりした。 1124年アレグザンダー1世世継ぎ残さず死去したため、デイヴィッド1世王位を嗣いだ。デイヴィッド兄たちと同様イングランド育ちノルマン風の教育を受け、ノルマン青年たちと親しく交わったそういうこともあり、イングランド知り合ったノルマン友人たちスコットランド招き要職につけた。こうして、デイヴィッド司法・行政などをノルマン流に改革し王権の強化努めたイングランドスティーブンと姪マティルダの間に王位争い無政府時代)が起こると、それに介入した1136年マティルダ支持宣言してイングランド領に攻め込みカーライルニューカッスル占領した1138年に、スタンダードスティーブン敗れ、いったんはカーライルニューカースル失ったものの、1140年結ばれたスティーブンマティルダ和議結果ノーサンバーランドカンバーランドなどの支配権獲得した。このときにイングランドより得たカーライル貨幣鋳造所により、スコットランド初めコイン鋳造した。これにより、スコットランドコイン流通し経済発展した宗教政策においても、司教区整備し教会修道院建設するなど、改革進めたため、スコットランド国内キリスト教広く普及したまた、スコットランド化した英語(スコットランド語)が共通語として通じようになったデイヴィッド1世統治した時代スコットランド国家と呼ぶにふさわしい国に仕立て上げられデイヴィッド1世最初偉大な王と呼ばれることになった1153年マルカム4世即位したイングランド王ヘンリー2世屈して1157年北部イングランドノーサンバーランドカンバーランド領有権放棄した。その跡を継いだウィリアム1世は、マルカム4世奪われ北部イングランド奪還当面目標とした。1168年フランス王ルイ7世秘密同盟いわゆる古い同盟」(Auld Alliance))を結んでイングランド対抗したイングランドヘンリー2世三男リチャード(後のリチャード1世)、その弟ジョン(後のジョン王)の親子兄弟内紛が起こると、リチャードジョン同盟を結び、1174年ノーサンバーランド攻め込んだ。しかし、ウィリアム1世ヘンリー2世軍に敗れ捕らえられた。そして、スコットランドイングランドに完全に臣従すること、スコットランド南部の城にはイングランド軍が進駐することなど、屈辱的な講和ファレーズ協定)を結ばされた。1189年イングランド王となったリチャード1世は、十字軍熱意燃やし、その資金源としてスコットランドとの臣従関係を金銭清算することを狙ったウィリアム1世1万マーク支払いイングランドとの臣従関係の解除スコットランド王としての主権回復イングランド軍のスコットランドからの撤退内容とするという協定カンタベリー協定)が結ばれたまた、北部マリ地方ケイスネスサザランド鎮圧し国王支配下に置くことに成功した。こうして、ノーサンバーランド以外のスコットランド掌握した宗教面では、1192年ローマ教皇ケレスティヌス3世交渉しスコットランド教会は、イングランドカンタベリー大司教から独立し自前教会組織を持つことに成功したまた、ウィリアム1世1199年イングランド王となったジョンノーサンバーランド買い戻す交渉をしたが実らないままであったウィリアム1世49年在位していた。スコットランド国王として初め紋章ライオン用いたため、獅子王William the Lion)と呼ばれる1214年アレグザンダー2世が跡を継ぎ1219年イングランド友好関係復活させた。1238年ヘンリー3世言いがかりつけられたこともあるが、1249年ニューカッスル和解した1236年ヨーク条約イングランドとの国境線確定した1261年、父アレグザンダー2世果たせなかったヘブリディーズ諸島ノルウェーからの奪還成功し1263年には西部クライド湾ノルウェー王ホーコン4世討ち破った3年後1266年パース両国条約を結び、ヘブリディーズ諸島正式にスコットランドとなったアレグザンダー3世時代イングランドとの関係は良好で、国内安定し、「黄金時代」と呼ばれるほど国民生活向上したアレグザンダー3世嗣子のないまま亡くなり長老重臣たちはアレグザンダー3世血を引くノルウェー王マルグレーテマーガレット)を後継者選出した。こうして、わずか3歳スコットランド初の女王誕生したが、マーガレットノルウェー王宮とどまったままだった。隣国イングランドエドワード1世スコットランド王位の継承狙って4歳王太子エドワード(後のエドワード2世)とマーガレット結婚迫ったスコットランド長老重臣たちにはこの要求拒否できず、1290年2人結婚同意することをエドワード1世通知したスコットランド南部結婚条件取り決められたが、国境地帯イングランド軍を配置するばかりかスコットランド王位継承権イングランド側に移すという屈辱的な内容であった結婚のためにスコットランドに渡ることになったマーガレット乗せた船が、ノルウェーベルゲンからスコットランド目指した。荒海の中、9月26日オークニー諸島に船が着いた。しかし、マーガレット極度船酔いによりわずか7歳死去したマーガレット死によってスコットランドアサル王家断絶し13人の王位請求者乱立する事態となった

※この「アサル朝」の解説は、「スコットランド王国」の解説の一部です。
「アサル朝」を含む「スコットランド王国」の記事については、「スコットランド王国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アサル朝」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アサル朝」の関連用語

アサル朝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アサル朝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアサル朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのスコットランド王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS