さまざまな誤解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 01:18 UTC 版)
利己的遺伝子という言葉はあくまで一種の比喩表現だが、しばしば次のような誤解を招いている。 利己的遺伝子論は遺伝決定論や還元主義だという誤解。 利己的遺伝子論は遺伝子が意志を持って振る舞うと主張しているという誤解。 利己的遺伝子論は生物個体の振る舞いが常に利己的だと主張しているという誤解。 利己的遺伝子論は遺伝子だけが価値ある物で、生物個体は無価値だと主張しているという誤解。 誤解の原因の一つに、一般に用いる「利己的」は道徳的判断を含むが、この場合の「利己的」とは純粋に行動上の評価であり道徳的な意味はない事が挙げられる。例えば、あるオス鳥が仲間のために餌を運び続けたとする。その様子を見たメスが、その行動を気に入り、多くのメスがそのオスと交尾をした場合、人間の道徳心から見れば、結果はどうであれ餌を運び続けたのは利他的な行為だったと言うだろう。しかし遺伝子中心視点では、結果的に自己の繁殖率を高めているのだから、鳥の意図はどうであれ利己的な行動であったとみなす。 あたかも遺伝子自体が意志をもって利己的に振る舞うかのごとくイメージされることがあるが、誤読である。ドーキンスも誤読されることを予測して本書の中で「利己的な遺伝子」という表現は説明を簡単にするための比喩、あるいは群淘汰の対比に過ぎないと繰り返し強調している。人間は赤の他人に手を貸すような真の利他性を見せることがある。だから利己的遺伝子と言う説明では不十分だと指摘もある。ウィルソンは人間行動に遺伝子中心視点を遠慮無く当てはめたが、そのうえで人間は社会や文化の拘束も受けると認めている。ドーキンスも、人間を遺伝子視点だけで説明しようとするのは誤りであると述べる。一方人間の真の利他行為は社会的評価に結びついている適応的な行為であると見なす社会選択説もある。 用いられる比喩が単純なものであったため、ある性質は一対一である遺伝子に結びついているのだ、のような遺伝子決定論・還元論的な用いられ方をすることもある。例えば「浮気は浮気遺伝子のせいだ」などである。この誤解は遺伝子の利己性を否定するものだけでなく、肯定するものにも見られる。一つの遺伝子が一つの形質と一対一で対応している事はまれであるから、「○○のための遺伝子」など存在しないといってよく、机上の空論であるという批判もある。しかしここで問題になっているのは、ある性質が単一の遺伝子によって決まるかどうかではなく、ある性質が選択されるかどうかである。「○○のための遺伝子」は話を単純化するための便宜的な表現でしかない。そしてたとえばイヌは人為選択の末、人になつきやすい性質を発達させてきた。おそらくなつきやすさを決める単一の遺伝子など存在しないが、それでも「なつきやすさ」は選択の対象となりうる。 「生物が生存機械であるならば、人間が生きる目的や意義はないのか?」という指摘に対してドーキンスは次のように答えている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}確かにこの宇宙には究極的な意志や目的など何もないのだろう。しかし、一方、個人の人生における希望を宇宙の究極的な運命に託している人間など私たちのうちに一人も存在していないこともまた事実である。それが普通の感じ方というものだ。我々の人生を左右するのは、もっと身近で、より具体的な思いや認識である。 また、生物の究極的な運命や、生物がどうであると言う言明と、人間がどうであるべきと言う主張は全く別であるとも述べている(「である-べきである議論」も参照)。
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