こうとくてんのうとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > こうとくてんのうの意味・解説 

こうとく‐てんのう〔カウトクテンワウ〕【孝徳天皇】

読み方:こうとくてんのう

597〜654]第36天皇在位645〜654。敏達(びだつ)天皇曽孫。名は軽(かる)。姉の皇極天皇譲位により即位。都を難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に移し大化の改新行った


孝徳天皇

孝徳天皇(軽皇子)は、645年の「乙巳の変(いっしのへん)」で先帝皇極天皇から譲位された(譲位の初例)。
そして皇極自らは上皇となった
孝徳天皇は中大兄皇子皇太子とし、孝徳朝の立役者中臣鎌足内臣(うちつおみ)に任じあわせて大錦冠位授けてその労に報いた
ついで阿倍内麻呂左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂右大臣任じた
皇后には間人皇女をたてた。
皇妃には阿倍倉梯麻呂の娘小足媛迎えた
この小足媛との間には狂人装い若くして悲運にも散った万葉貴公子有間皇子がいる。
645年にはじめて年号をたて大化元年とした(年号の初例)。
また孝徳朝の時代には東国国司派遣したり、倭の六県(やまとのむつのあがた=大和国高市葛城十市志貴山辺曽布をいう)に戸籍作成田畑調査のため役人派遣した
また、世論聞くための匱(箱)と鐘が朝廷設けられた(鐘匱の制)。
さらに「男女の法」「薄葬令発布」などを行った
645年9月出家して吉野隠棲していた古人大兄皇子謀反企て中大兄皇子討たれた。
真相古人大兄皇子中大兄にとって皇位継承最大ライバルであったから中大兄と鎌足共同謀議よるもの考えられている。
645年末に難波長柄豊碕宮遷都し、翌646年(大化2年)1月改新の詔が発せられた。
改新の詔は①公地公民制統一的地方行政制度戸籍計帳班田収授制統一的税制からなるものであった
(注)大化の改新一般的(教科書的)には645年はじまりとされています。
改新の詔がだされた646年混同しないことが大切です。
649年右大臣蘇我倉山田石川麻呂異母弟蘇我日向讒言により謀反疑いかけられ自害した
石川麻呂無実だったといわれ、後に蘇我日向太宰師として九州左遷されたが、中大兄と鎌足陰謀説根強く支持されている。
お中大兄の妃の造媛は右大臣石川麻呂の娘で、悲しみのあまり死んでしまったという。
650年改元して白雉とした。
653年中大兄皇子大和遷都すべきことを奏上したが天皇はこれを拒否した
中大兄皇子はこれを無視して遷都強行
皇極間人大海人ら一族皆中大兄皇子につき、654年10月孝徳天皇は失意のうちに豊碕宮にて崩御した。
36代天皇
天皇名孝徳天皇
読み方こうとくてんのう
名・諱等天万豊日天皇
読み方あめよろずとよひのすめらみこと
時代区分古代
天皇在位645年から654年
生年596?
没年654
茅渟王
吉備姫王
兄弟宝皇女(皇極斉明)
配偶者間人皇女小足媛
皇子女有間皇子
即位宮飛鳥板蓋宮
天皇陵大阪磯長陵
所在地大阪府南河内郡太子町大字山田


孝徳天皇 大阪磯長陵
(こうとくてんのう おおさかのしながのみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第36
天 皇 名 :孝徳天皇
(こうとくてんのう)
御   父 茅渟王
御   母 :妃吉備姫
御 陵 名 大阪磯長陵
おおさかのしながのみささぎ
陵   形 円丘
所 在 地 大阪府南河内郡太子町大字山田
交通機関等 近鉄喜志」からバス六枚橋下車  東へ0.8km
陵印保管場所 古市陵墓監区事務所


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「こうとくてんのう」の関連用語

1
孝徳天皇 デジタル大辞泉
100% |||||

こうとくてんのうのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



こうとくてんのうのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
歴史浪漫歴史浪漫
Copyright(C)2024.1.1 ~@Hinet Suzuki Minoru  All Rights Reserved Since-1998.11.21
宮内庁宮内庁
Copyright © 2024 Imperial Household Agency. All rights reserved.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS