『WHAT WAR MEANS』の出版とフィッチの渡米
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「ハロルド・J・ティンパーリ」の記事における「『WHAT WAR MEANS』の出版とフィッチの渡米」の解説
ティンパーリは南京城内の安全区委員会のメンバーであったジョージ・アシュモア・フィッチ、マイナー・シール・ベイツからの報告や安全区委員会文書、その他各地の日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめ、『What War Means: The Japanese Terror in China(戦争とは何か-中国における日本の暴虐)』を編集する。 なお、出版にあたって、南京安全区国際委員会委員であり金陵大学(現:南京大学)教授であったマイナー・シール・ベイツへの書簡(1938年2月4日付)においてティンパーリは次のように書いている。 ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)のすばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。ジョージに直ちにアメリカに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言しました。効果はてきめんです。中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官からは会見を申し込まれるだろうし、(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれません。(中略)行くとすれば早いほうが望ましいので、飛行機になると思います。資金の手配はしているところです。 まもなくフィッチは渡米し、政府関係者と面会し、以後7ヶ月ものあいだ全米各地で講演会を開いた。北村稔はティンパーリがフリーランスの記者として厳しい生活をしていたと思われている話があることを元に、フィッチの米国行きの飛行機代の資金源は国民党ではないかと考えている。 ティンパーリは、1938年4月初めに上海からロンドンに向い、7月にヴィクター・ゴランツ書店(英語版)から『What War Means: The Japanese Terror in China』を刊行した。ヴィクター・ゴランツはイギリスのSF・ファンタジー・ミステリーを主体とする出版社の経営者で、彼自身は社会主義者であった一方で当時のソ連のフィンランド侵攻を批判するなど硬骨漢であることで知られたイギリスの代表的な左翼知識人であった。ティンパーリの『WHAT WAR MEANS』はレフト・ブッククラブ(LEFT BOOK CLUB,左翼叢書)という叢書のひとつとして刊行された。同叢書からはエドガー・スノー『中国の赤い星』やアグネス・スメドレー『中国は抵抗する』なども刊行されている。また『WHAT WAR MEANS』は刊行と同時に中国語訳も出版された(由楊明訳『外人目睹中之日軍暴行』漢口民国出版社、1938年7月)。刊行後、ティンパーリは米国を旅行した後、マンチェスター・ガーディアン紙やASIA誌を辞し、1939年3月頃、重慶に入った。 1939年(4月?)から1943年3月まで、ティンパーリは中国国民党の中央宣伝部顧問となる。その後、1943年から1945年まで、連合国(のInformation Officeに勤務。
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