「避諱欠画令」の展開とは? わかりやすく解説

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「避諱欠画令」の展開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 21:55 UTC 版)

避諱欠画令」の記事における「「避諱欠画令」の展開」の解説

18世紀後半桃園天皇早世により、幼少英仁親王に代わって姉の智子内親王後桜町天皇として皇位継ぎ成人した英仁皇位譲られ後桃園天皇となった。しかし、後桃園天皇早世をして皇統断絶危機迎えた際に、後桜町上皇摂家相談した結果九条尚実提案により閑院宮家から兼仁親王後桃園天皇養子として迎えられ皇位継承して光格天皇として即位し後桜町上皇がこれを庇護した。所謂天明天皇避諱欠画令」の対象となったのは、桃園祖父)-後桃園(父)-光格当代養子)の3代現実的な庇護者であった後桜町伯母)の4名であった。ただし、後世見られる外部への通知に関する記録がないため(三条実万具体的な開始時期確定できなかったのもそのためか)、職事など天皇直接接す機会が多い人達に対してのみ適用され内部規定であった可能性もある。なお、尊号一件との関わりでその扱い方問題となっていた光格天皇実父閑院宮典仁親王の「典」は欠画対象から外され以後踏襲されている。 文化14年1817年)、光格天皇皇太子である恵仁親王皇位譲って仁孝天皇即位した新天即位翌年文政元年1818年5月17日関白一条忠良から武家伝奏山科忠言広橋胤定に対して避諱欠画周知徹底命じられた。その際に『唐六典のみならず国史職員令にも国諱(皇帝天皇の諱)を犯してならないとする規定があることを指摘し摂家親王以下の諸役人京都所司代諸社門跡にも徹底周知される旨が示された(「山科忠言伝奏記」文政元年5月17日条)。同じ日、頭弁坊城明からも局務押小路師徳・官務壬生以寧・出納平田職厚(いわゆる「三催」)に対して地下官人対す周知徹底命じられている。ただし、この命令発したときに何処まで欠画範囲になるのかを明確にしていなかったらしく、後日平田職厚が広橋胤定問い合わせをしたところ、後桃園天皇の「英(仁)」、後桜町天皇上皇)の「智(子)」、光格天皇上皇)の「兼(仁)」、仁孝天皇の「恵(仁)」の4字が欠画対象となっている、との回答得ている(「平田職厚日記文政元年5月21日条)。これは後桃園祖父)-光格(父・養子)-仁孝当代)の3代加えて院政主導する光格上皇庇護者であった後桜町上皇文化10年崩御)が崩御後もなお対象にされていたと考えられている。ただし、この所謂「文政天皇避諱欠画令」の発令され事実そのもの各方面には通知されたものの、欠画範囲に関する通知は公式な形では通知が行われなかったらしく、光格上皇の「兼」と仁孝天皇の「恵」に関して遵守されていたが、その他に関して徹底されていなかった。なお、仁孝天皇の「恵」の字については恵仁親王立太子されて以降避諱対象考えられてきたが、欠画対象とされたのは今回初めてである。その後天保11年1840年)に光格上皇崩御し、その直後それまで光格上皇との特別な関係から欠画対象とされてきた後桜町上皇の「智」の字は対象から外されている(時期不明)が、これに関して明確な形で公表されなかった。 弘化3年1846年)、仁孝天皇崩御され、皇太子である統仁親王孝明天皇として即位する。翌弘化4年1847年)、朝廷では議奏であった三条実万問い合わせに対して光格天皇上皇)の「兼(仁)」、仁孝天皇の「恵(仁)」、孝明天皇の「統(仁)」の3字欠画とすることが決定された。しかし、「文政天皇避諱欠画令」の規定に准じているため、各方面への通知不要とされた。確かに避諱欠画令対象として想定されたのは祖父・父・当代の3名であり、皇位継承によってその対象変更されたと考えられるものの、実際に出され規定においてこの3名以外にも光格天皇庇護者であった後桜町上皇対象加えられている時点想定実際の運用が完全に異なっており、後から後桜町上皇の「智」の字が対象から外され事実公表されていなかった(これらの事実が現在に知られるのも、前述三条実万日記による)。文政発令時における欠画対象不完全な通知後桜町上皇欠画対象から外したことの非公表孝明天皇即位に伴う欠画対象変更に関する非通知重なったことで後日問題引き起こすことになる。 嘉永元年1848年5月江戸幕府新しく長崎奉行任命され稲葉正申のために武家官位従五位下出羽守)への叙任求めた。ところが稲葉家本姓は「越智氏」であり後桜町上皇の「智」が欠画から外されたことを知らなかった廷臣関連文書が「智」が欠画になっていないことを問題視し、それを受けた関白鷹司政通が突然「7代まで避諱欠画対象である」と発言したために議奏野宮定祥橋本実久困惑して議奏である三条実万相談をした。実去年弘化4年)の決定異なっていることを政通に伝えると、政通は誤り認めた上できちんとした法令としてその旨告知する必要がある述べた三条実万日記記述は元々、この騒ぎ解決するために過去の経緯調べた物である)。8月5日、公式に避諱欠画対象は「兼」「恵」「統」の3字であることが公式に通知され江戸幕府にも京都所司代通じて通知された。これが所謂嘉永天皇避諱欠画令」と呼ばれるもので、これ以降践祚・即位式・代始改元大嘗祭加えて避諱欠画令天皇即位儀礼として加えられることになった一連の騒動野宮定祥上の決定先例に逆らうわけにはいかないとぼやきつつも、そもそも文政令の3代という数字関白言い出した7代という数字何の根拠があって言い出したのか?と避諱欠画令これまでずっと公の議論によらず内輪ごく一部人間だけで定められてきたことを問題視している(「野宮定祥日記嘉永元年7月29日条)。

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