鎌倉 鎌倉の概要

鎌倉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:59 UTC 版)

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鎌倉大仏(高徳院 阿弥陀如来像)
鎌倉市中心部周辺の空中写真。南を相模湾、東・西・北の三方を山に囲まれた地形である。1988年(昭和63年)撮影の8枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

概要

座標: 北緯35度19分07.7秒 東経139度33分06.9秒 / 北緯35.318806度 東経139.551917度 / 35.318806; 139.551917

鎌倉エリア

平安時代には桓武平氏当主である平直方によって居館が構えられ、直方娘と河内源氏である源頼義との婚姻を契機として鎌倉を譲り渡したことで河内源氏ゆかりの地となった。治承・寿永の乱時に源頼朝が大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。

鎌倉時代には日本の政治において最も重要な位置のひとつを占めていた。12世紀末から14世紀半ばの1333年(元弘3年)まで幕府が置かれ、鎌倉文化が全国に広がった。近代に入ってからの鎌倉には鎌倉文士と呼ばれる作家、美術家などの文化人が集まり住み、いくつかのドラマや小説などの舞台にもなってきた。

現在の鎌倉は中世の鎌倉とは断絶した地割りであるが、古都保存法によって乱開発が規制され、古社寺や史跡、神奈川県唯一の国宝建築である円覚寺舎利殿を含めた文化財が比較的多く残る。また市が観光振興に力を入れていることもあり、観光を主な産業として今なお繁栄する。

本項では「歴史都市」「文化都市」「観光都市」としての「鎌倉」について述べることとする。

天然の要塞

鎌倉の市街地は東・北・西の三方を山で囲まれ、南は相模湾に面した天然の要害である。東・北・西のいずれから鎌倉に入るとしても「鎌倉七口」と呼ばれる、山を切り開いた狭い通路(切通し)を通らねばならず、防御のしやすい土地柄であった。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝がここを拠点としたのは、父祖ゆかりの土地であったこととともに、こうした地理的条件による部分が大きかったとされる。市街地の北西には源氏山(92メートル)があり、山並みは高徳院(鎌倉大仏)の裏手を通って稲村ヶ崎まで伸びている。市街地の北から東にかけては六国見山(147メートル)、大平山(159メートル)、天台山(141メートル)、衣張山(120メートル)などの低い山が連なり、逗子市との境に当たる飯島ヶ崎、和賀江島(わかえじま)方面へ伸びている。市街地周辺の山はいずれも標高100~150メートル程度だが、標高の低い割には急坂やアップダウンの激しい山道が多いとされ、市街地北方の尾根道には「鎌倉アルプス」の別称がある。

鎌倉城

この地形的特徴と、九条兼実日記玉葉』の寿永2年(1183年)の記事に「鎌倉城」という言葉があることから、赤星直忠の研究以来、当時の鎌倉は全域が城塞(城郭都市)と見なされていたとする説がある[1][2][3]

ただし、この言葉の解釈をめぐっては、赤星により防御施設とされた「お猿畠の大切岸」などに代表される山上の切岸状人工地形が、建築土木材用の石切場(採石場)であることが発掘調査で判明したことや[4]、『玉葉』での「城」という言葉が、城郭というより源頼朝の「本拠地」という意味合いで使われているとする齋藤慎一の指摘などがあり[5]、鎌倉=城郭都市と見なすかについては諸説がある[6][7]

鎌倉の範囲

現代の鎌倉市域は、南は相模湾に面し、北は横浜市、東は逗子市、西は藤沢市に隣接した区域で、面積は39.5平方キロメートルである。これは周辺の腰越町(1939年合併)、深沢村(1948年合併)、大船町(おおふなまち、1948年合併)が合併した後の市域である。古代の鎌倉はこれよりずっと狭い地域で、前述の東・北・西の三方を山で囲まれた地域に相当し、いわゆる「旧鎌倉」(=鎌倉七口の内側)に当る。これは鎌倉市内の市街地郊外に位置する諸地域にも「北鎌倉」、「鎌倉山」、「西鎌倉」、「鎌倉逗子ハイランド」等、「鎌倉」を名乗る地区があり、これらと区別する場合にも用いられる。なお、「旧鎌倉」の外側にある北鎌倉地区(旧大船町)は、鶴岡八幡宮のすぐ西「巨福呂坂」切通を越えた地域にあるが、最も鎌倉らしい風情を残す地区の一つであると言える。

鎌倉時代後期には、「鎌倉」の範囲は、東=六浦(横浜市金沢区)、西=片瀬川(藤沢市境)、南=小坪(逗子市)、北=山内(横浜市栄区)にまで拡がった。

なお、現在の横浜市南西部(概ね戸塚区瀬谷区栄区泉区)や藤沢市の一部(概ね境川より東側)を含めた地域は鎌倉郡と呼ばれた(1948年消滅)。

鎌倉幕府の都市計画:鎌倉六大路

浜の大鳥居跡、現在の一の鳥居よりも約200m山側で歩道工事中に発見された。右下(および若宮大路向い側)の円形の石敷は柱根発掘地、上方は閻魔橋方向への車大路
町屋跡碑:大町四つ角近くの小町大路・魚町橋の先に建つ。大町大路のほか、米町、魚町、辻町等の名も記されている

現在の鎌倉市街地(「旧鎌倉」地域)の主要道路網は、鎌倉時代の都市計画に基づく「大路」の名残をかなりとどめている。即ち、鶴岡八幡宮から由比ガ浜に向かう都市計画上の中心線としての若宮大路がその代表といえる。このほか、東側を並行する小町大路(現在の通称:辻説法通り、三浦道等)、同じく西側の今大路(同:今小路)が、南北線の基幹大路を成していた。さらに東西線の基幹大路としては、北側(山側)から順に、三の鳥居前の横大路、下馬四つ角を通る大町大路(同:由比が浜通り、大町通り、名越道等)、さらにその南側(海側)には浜の大鳥居跡(旧一の鳥居)前で若宮大路と交差する車大路(同:琵琶小路、本興寺裏辻子等)があった。このため、かなり歪んだ形ではあるが、南北3本・東西3本の六大路により碁盤の目状の道路網が形成されていた。

このうち、現在では「車大路」のみ、一部が廃道となっている(六地蔵近くから鎌倉第一小学校前・浜の大鳥居跡・鎌倉女学院前を通り、閻魔橋を渡った約100メートル先で中絶)。後世の横須賀線工事によるものであるが、「小町大路」の魚町橋と横須賀線三浦道踏切の間にある横断歩道から、再び東方向に名越方面に抜ける細い辻子が残っており、「車大路」の名残が窺われる。なお、この辺りの古町名を「辻町」という(大町のうち魚町橋以南から、踏切を越えて材木座のうち元八幡辺りまで)。かつてここが、「小町大路」と「車大路」の辻に当たっていたためであり、今も辻の本興寺辻の薬師堂等の名称にその縁を残している。

なお、上記の基幹大路の名と現在通称されている道路名とには紛らわしいものがあるので、注意を要する。特に紛らわしいのは、小町大路小町通である。小町大路は筋替橋から材木座までの由緒ある大路で、その両側には幕府高官・御家人の屋敷が並び、とくに大町四つ角以南は当時の鎌倉随一の繁華街でもあった。このため、日蓮のいわゆる「辻説法」も、この大路の彼方此方で行われたものと考えられ、今も大路の2箇所に辻説法跡の記念碑(大町の本興寺門前、及び小町2丁目)が建てられている。今ではこの付近は閑静な住宅街となっている。一方、小町通りは、鎌倉駅前から鶴岡八幡宮までの比較的新しく名付けられた観光土産屋通りであるが、現在では多くの行楽客で賑わう一大観光スポットとなっている。

また、現在、「琵琶小路」と誤って呼ばれている第一小の前の道は、かつての「車大路」の一部である。なお、往古は、若宮大路のうち下馬四つ角から車大路四つ角の間の区間が琵琶状に歪曲していたことから、琵琶小路と呼ばれていた。

歴史

飛鳥・奈良時代以前

発掘調査など、主に考古学分野の研究成果を通じてその実像に迫る試みが行われている[8]

鎌倉市内には多くの遺跡埋蔵文化財包蔵地)があり(特に鎌倉中心部はほぼ全域が遺跡のエリアとなっている[9][10])、旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代の遺跡も発見されているが、旧石器~縄文時代の遺跡(東正院遺跡・玉縄城遺跡・粟船山遺跡など)は、主に関谷玉縄大船地区などの市域北西部に分布し、柏尾川流域の台地上を中心に人々が住み始めたことが解っている[11]

弥生時代に入ると、縄文時代に引き続き市域北西部の柏尾川水系の丘陵地や台地上に集落遺跡の分布が見られるが、弥生時代中期後半からは水稲耕作の場を求めて鎌倉中心部である滑川沖積低地部にも人々が進出し、低地北側(滑川上流)の大倉幕府周辺遺跡群に竪穴住居群(集落跡)が現れ[12]、弥生時代末頃には由比ヶ浜沿岸の海岸砂丘帯に位置する由比ヶ浜南遺跡や長谷小路周辺遺跡などでも弥生時代の集落が営まれるようになる[13][14]

古墳時代末(6世紀頃)になると、鎌倉から三浦半島にかけては『古事記』に見える「鎌倉別(かまくらわけ)」という古代豪族の勢力圏であったと考えられており、横穴墓群が市内の丘陵地帯で多く形成された[15]。鎌倉市から隣の横浜市栄区あたりまで存在している横穴墓遺跡の中には、特徴的な形をした玄室を持つものがあり[16]、旧鎌倉郡に分布しているとして「鎌倉型横穴墓」(鍛冶ヶ谷式横穴墓)と呼ぶ事がある[17][18]

また海岸砂丘帯の長谷小路周辺遺跡では、横須賀市などの海辺でも見られる箱式石棺墓が発見されており、由比ヶ浜一帯で海洋民集団が活動していたと推定されている[19]

奈良時代律令体制下では、鎌倉は相模国鎌倉郡郡衙(郡役所)が置かれ、行政の中心となった。現在の御成小学校を中心とする今小路西遺跡では、整然と建ち並ぶ大型の掘立柱建物跡が検出され、納めた租税を書き付けた「天平5年(733年)」銘の木簡が出土したことから、鎌倉郡衙跡であることが判明した[20]

現在市内には、杉本寺長谷寺甘縄神明神社のように創建を奈良時代と伝える寺社が存在するが、実際に今小路西遺跡(旧・千葉地遺跡)や若宮大路周辺遺跡群(旧・千葉地東遺跡)では古代瓦が出土しており、古代寺院(千葉地廃寺)が存在していたことを示唆している[21]

また、万葉集にも登場し、三浦半島(相模国)から海路を通じて房総半島(下総国)へ向かう古代の東海道が通っていた[22]。由比ヶ浜の由比ガ浜中世集団墓地遺跡では、漁労具を伴う奈良・平安時代の集落遺跡や、祭祀に用いられた卜骨が出土しており[23]古墳時代に続き、古代においても沿岸部では海と関わる人々の生活が続けられていた。

鎌倉は、比較的古くから人々が居住して古代には郡衙が置かれ、古東海道の中間地点として伊豆半島房総半島を繋ぐ海上交通と物流の要衝と考えらている[24]

また、鶴岡八幡宮の敷地に関しても、1982年昭和57年)の発掘調査で土葬の遺骨や寺院の遺構と思われるものが発見されている。福島金治は『阿娑縛抄』第百十四「妙見部」に引用されている仁平3年(1153年)8月9日付の「妙見菩薩供注進状」の中で、聖昭が鳥羽法皇藤原忠通の諮問に対して国内の妙見菩薩信仰の拠点として比叡山北谷の妙見堂と並んで挙げている「鎌倉生源寺」がその該当寺院であった可能性を指摘している。生源寺は廃仏毀釈によって廃された松源寺(岩窟不動尊の東にあった)の前身と推測されており、事実とすれば鶴岡八幡宮建設時に移転をしたことになる。福島は頼朝以前の鎌倉地域(江ノ島を含める)が天台宗の重要な拠点であった可能性を指摘した上で、『吾妻鏡』の表現を「武家政権誕生を意図した説話的表現」で、これはそのまま徳川家康の江戸入城時の逸話にも転用されている可能性があるとしている[25]

なお、蘇我入鹿打倒を祈願するために常陸国鹿島神宮を訪れた藤原鎌足が、帰途に霊夢によって鎌を埋めた土地であることから「鎌倉」と命名されたとする伝説がある。これは鎌足の末裔である藤原頼経が将軍の地位に就いた鎌倉時代中期以後に成立した伝説とみられ、史実ではないが、中世から近世にかけて多くの地誌に採録されて広く信じられていた[26]

平安時代末期には平直方が居館を構え、平忠常の乱鎮圧を源頼信に委ねて以来、河内源氏ゆかりの地となった。『陸奥話記』などの軍記物語には頼信の息子である源頼義の武勇にほれ込んだ平直方が頼義を娘婿に迎えて鎌倉を譲ったと伝えている。歴史学者の川合康は、頼信父子も直方も京都を本拠とする軍事貴族であり、直方が京都において頼義を娘婿に迎えた後に相模守に任じられた頼義のために鎌倉にあった所領を譲ったのではないかと推測している[27]

また長谷寺甘縄神社、御霊神社、星井寺、元八幡宮、荏柄天神社、もしくはその前身が創建されたと縁起などに基づき考えられている。

平安時代

平直方は鎌倉に関東の拠点を持っていたが、源頼義を婿に迎え、河内源氏へ譲り渡した(平忠常の乱の終息後)。

吾妻鑑の初期鎌倉像

なお従来は鎌倉が歴史の表舞台に登場するのは源頼朝の登場以降との考えもあり、平安時代中期以前の鎌倉の実情については文献史料に乏しく、あまり明確ではないとされていた。また『吾妻鑑』治承4年(1180年)12月12日条の、頼朝が新邸(大倉御所)に入居した際の記事に、「所素辺鄙、而海人野叟之外、卜居之類少之、正當于此時間、閭巷直路、村里授号、加之家屋並甍、門扉輾軒云々。(ここはもともと辺鄙な土地で、漁民や農民以外に住もうとする者は少なかったが、まさにこの時〈=頼朝の御所入り〉から、道路は真っ直ぐにされ、村里にも名が付けられ、家屋・門扉が建ち並ぶようになったと言う)」とあることから、頼朝入部以前の鎌倉は、人家も疎らな辺境というイメージもあった[28]

上記の「辺鄙な土地」という描写には、頼朝の業績を称揚するための演出的な意図が含まれていると見られており、頼朝(またはそれ以前からの河内源氏たち)が鎌倉を拠点に選んだ理由は、むしろ東西を結ぶ海上交通の要衝という地理的な特性を踏まえてのことだったのではないかとも考えられている[29]

源氏と鎌倉

伝源頼朝像(像主については異説もある。)

康平6年(1063年)に清和源氏棟梁源頼義は由比郷鶴岡(鎌倉市材木座)に「鶴岡若宮」として、河内源氏氏神である河内国石川郡壷井の壷井八幡宮を勧請した。この年は、頼義が陸奥安倍貞任を討ち、前九年の役が終結した翌年である。頼義は、氏神として信仰する八幡神に戦勝を祈願していた。そして、戦いの後、京都郊外の石清水八幡宮に勝利を感謝し、本拠地の河内国壷井に壷井八幡宮を勧請し、河内源氏の東国進出の拠点である鎌倉に八幡神の分霊を祀った。これが今も鎌倉の中心である鶴岡八幡宮の起源である。

それから1世紀以上経た治承4年(1180年)、頼義の玄孫である源頼朝が鎌倉入りした。頼朝の父・義朝は、頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、頼朝の異母兄・義平大蔵合戦での活躍もあり関東に強い基盤を持っていたが、平治の乱平治元年/1159年)で平清盛との戦いに敗れ、関東へ落ち延びる途中尾張国で殺害された。これが初陣であった若き頼朝も殺されるはずであったが、清盛の継母にあたる池禅尼の助命嘆願で許され、摂津源氏源頼政一族の知行国でもある伊豆蛭ヶ小島へ流された。それから20年後の治承4年(1180年)、以仁王が頼政の嫡子の「前伊豆守」源仲綱を通じて全国の源氏に発した令旨を奉じた頼朝は、流刑先の伊豆で平氏打倒の兵を挙げる。頼朝の軍は石橋山の戦い(神奈川県小田原市)では敗北して、いったん安房千葉県南部)へ引き下がるが、ここで軍勢を整えて、続く富士川の戦いでは平維盛らの軍勢を圧倒する。関東を平定した頼朝は父祖ゆかりの地であり、天然の要害である鎌倉に入り、大倉(大蔵)という場所に館を設ける。現在の鶴岡八幡宮の東方、横国大附属鎌倉小学校校舎と校庭の境付近から清泉小学校あたりがその館跡で[30]、ここは後に「大倉幕府(大倉御所)」と呼ばれるようになる。

同じ治承4年(1180年)、頼朝は八幡宮(鶴岡若宮・由比若宮)を由比郷鶴岡から小林郷へ移す。小林郷は現在の鶴岡八幡宮の所在地であり、「鶴岡」は地名ごと移動してきたことになる(なお、由比若宮の旧地には、今も「元八幡」という小社が残る)。以後、鶴岡八幡宮は鎌倉の象徴となり、都市計画は八幡宮を中心に行われた。寿永元年(1182年)には八幡宮の表参道が整備された。現在も鎌倉のメインストリートである若宮大路がそれである。当時、水田の中の道だった若宮大路は、石を積んで周囲の地面よりかさ上げする工事が行われた。現在「段葛」(だんかずら)と呼ばれている、両脇の車道より一段高くなった歩道はその名残である。

鎌倉時代

鶴岡八幡宮と大イチョウ

「鎌倉時代」あるいは「鎌倉幕府」の始まりをどこに置くかは、研究者によって見解が分かれている。

  1. 頼朝が鎌倉入りした治承4年(1180年)とする。
  2. 後白河法皇から守護地頭の設置を許可され、平家平氏の中の伊勢平氏庶流の平清盛一族のこと)が壇ノ浦で滅亡した文治元年(1185年)とする。
  3. 頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192年)とする。

どの年を「鎌倉時代」の最初の年とするかについては、上に挙げた以外にも2、3の説があるが、武士の街としての鎌倉の始まりは頼朝が鎌倉に館を構えた1180年とみて大過ないであろう。この時点から日本の政治体制は変化し、明治維新まで700年近く続く、武家社会封建社会が始まったのである。

河内源氏の源頼朝の家の正系の将軍は3代で途絶え、3代将軍実朝が甥(実朝の兄である2代将軍頼家の子)の公暁に殺害されてからは、北条氏が実権を握ることになる。この当時(12世紀末~13世紀初頭)は、京都の中央政府(院政)の力も衰えておらず、中央(都、首都)と鎌倉の二元的支配体制であったが、承久3年(1221年)の承久の乱における幕府軍の勝利以後、鎌倉側の政治的優位は決定的となり、鎌倉は名実共に、日本の行政府所在地となったといえる。

北条氏は比企氏三浦氏和田氏など、ライバルとなるおそれのある一族を次々と滅ぼし、摂家将軍親王将軍を名目的な将軍として擁立し、自らは執権として幕府機構を掌握した。3代執権・北条泰時の代には、幕政の中心となる将軍御所の所在地が大倉幕府から北条義時大倉亭内の二階堂大路仮御所を経て、宇都宮辻子幕府若宮大路幕府へと移転している[31]

鎌倉幕府は13世紀中頃以降は元寇という大事件があったものの、政治体制は一応安定していた。13世紀後半には建長寺円覚寺をはじめとする禅寺が建てられ、鎌倉大仏が造立され、鎌倉五山の成立や、日蓮が活躍するなど、仏教文化が大いに栄えた。

その後、元寇をきっかけに幕府財政は逼迫し、内管領長崎氏の専横などで、地方では悪党が活動する。こうした中で後醍醐天皇は倒幕を企てる。元弘3年(1333年)、天皇の意を受けた新田義貞軍は鎌倉を陥落させ、北条高時ら一族と家臣は東勝寺合戦において自決し、鎌倉幕府は滅亡した。

室町・戦国時代

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国

建武の新政においては関東統治のため鎌倉将軍府が置かれ、足利尊氏の弟である直義成良親王を奉じて派遣される。35年に北条氏の残党勢力による中先代の乱が起こり鎌倉が奪還されると、討伐のために赴いた尊氏が戦後に鎌倉を拠点に建武政権から離反する。足利軍は36年に京都を奪還し、京都に武家政権を成立させ、南北朝時代貞和5年(正平4年、1349年)には、鎌倉へ尊氏の子の基氏が派遣され、東国支配のための出先機関として鎌倉府が設置される(その長官が鎌倉公方)。

室町時代には鎌倉府は京都の幕府と対立し、永享の乱などが起こる。康正元年(1455年)に5代目鎌倉公方足利成氏室町幕府側と対立し、下総国古河茨城県古河市)に逃れて、以後「古河公方」と称する(享徳の乱)。享徳の乱以降、相模国は扇ヶ谷に邸宅を持っていた扇谷上杉家の勢力圏となるが、その家宰江戸城を築いたことで知られる太田道灌である。英勝寺付近に扇谷上杉家や太田道灌の屋敷があったとする伝承がある。

なおこの時期(14世紀15世紀)には、由比ヶ浜の海岸砂丘が大規模な集団墓地として使用されており、現在の由比ヶ浜南遺跡と由比ヶ浜中世集団墓地遺跡からは数千体分の人骨や獣骨が出土している[32]

明応7年8月25日(1498年9月20日)に発生した明応地震で、鎌倉は津波に襲われた。高徳院大仏殿は津波で倒壊して、鎌倉の大仏が露坐となったとする説がある。

永正9年(1512年)には北条早雲が現在の鎌倉市大船小田原城の支城である玉縄城を築いた。しかし、三浦半島の支配権を巡って、後北条氏里見氏の対立が深まり、大永6年(1526年)の鶴岡八幡宮の戦いでは鎌倉市中が戦場になっている。

江戸時代以降

近世に入ると、江戸に武家政権が成立し、鶴岡八幡宮は徳川家康秀忠の保護を受け社殿の修理も行われたが、太田道灌を輩出した鎌倉が、以降の政治の表舞台に立つことはもはやなかった。

江戸時代中期、貞享2年(1685年)に徳川光圀が自身の鎌倉紀行を基に編纂させた『新編鎌倉志』が刊行されると鎌倉の名所・史跡の数々が世に知られるようになり、鎌倉は江戸近郊の遊楽地となった。「鎌倉七口」「鎌倉十橋」「鎌倉十井(じっせい)」などのいわゆる「名数」もこの書に基づいている。なお、1706年(宝永3年)刊行の書物 「風俗文選」(森川許六選)の「鎌倉の賦」の項には、鎌倉の名所や短歌などが記載されている[33]

近代になると、鎌倉は、海水浴場や観光地として栄えるようになる。また、鎌倉文士と呼ばれる多くの文人らが誕生した。現代の鎌倉は、多くの史跡、観光地、そして良好な自然環境を残す住宅地を有するエリアとして発展している。

略年表


  1. ^ 赤星 1959
  2. ^ 赤星 1972
  3. ^ 平井ほか 1980 pp.335-336
  4. ^ 「国指定史跡 名越切通」逗子市公式HP
  5. ^ 齋藤 2006 pp.184-185
  6. ^ 岡 2004 pp.41-64
  7. ^ 齋藤 2006 pp.184-185
  8. ^ 「鎌倉の埋蔵文化財シリーズ」より鎌倉市公式HP
  9. ^ 「鎌倉市周知の埋蔵文化財包蔵地一覧」鎌倉市公式HP
  10. ^ 「鎌倉市遺跡地図について」鎌倉市公式HP
  11. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 pp.17-25
  12. ^ 鎌倉市教育委員会 1998 p.3
  13. ^ 鎌倉市教育委員会 2001 p.3
  14. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 pp.26-27
  15. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 pp.32-33
  16. ^ 埋蔵文化財センター(横浜市)『埋文よこはま31』(2015年)1-3ページ
  17. ^ 埋蔵文化財センター(横浜市)『栄区の重要遺跡』(2015年)20-30ページ
  18. ^ 栄区横穴墓探訪記(1)”. 埋蔵文化財センター(横浜市). 2022年1月9日閲覧。
  19. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 pp.44
  20. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 pp.50-53
  21. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 p.59
  22. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 p.59
  23. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 pp.56-57
  24. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 p.50
  25. ^ 福島金治「鶴岡八幡宮の成立と鎌倉生源寺・江ノ島」地方史研究協議会編『都市・近郊の信仰と遊山・観光 交流と引用』(雄山閣、1999年)ISBN 4-639-01640-9 P24-37.
  26. ^ 黒田智「『鎌倉』と鎌足」(所収:鎌倉遺文研究会 編『鎌倉遺文研究3 鎌倉期社会と史料論』(東京堂出版、2002年) ISBN 978-4-490-20469-8
  27. ^ 川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』(吉川弘文館、2019年) ISBN 978-4-642-02954-4 pp.78-80・pp.267-268
  28. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021 p.14
  29. ^ 鎌倉歴史文化交流館 2021
  30. ^ 松葉 2018 pp.6-10
  31. ^ 高橋 2005 p.13
  32. ^ 鎌倉市教育委員会 1998 pp.10-11
  33. ^ 『風俗文選(森川許六 選)・和漢文操(各務支考 編)・鶉衣(横井也有 著)』藤井紫影、武笠三諸 校訂、有朋堂書店(有朋堂文庫)1918年(大正7年)30頁
  34. ^ 鎌倉ペンクラブとは|鎌倉ペンクラブ”. kamakurapen.club. 2019年6月2日閲覧。
  35. ^ これまでの活動|鎌倉ペンクラブ”. kamakurapen.club. 2019年6月2日閲覧。
  36. ^ 「ミュージアムについて」(鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム公式サイト)(2019年6月23日閲覧)
  37. ^ 吉屋信子記念館(鎌倉市サイト)
  38. ^ 観るなび(日本観光振興協会)
  39. ^ 旧華頂宮邸(鎌倉市サイト)
  40. ^ 「扇湖山荘庭園公開」(鎌倉市観光協会)






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