近江国庁跡 近江国庁跡の概要

近江国庁跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/15 10:12 UTC 版)

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石碑

発掘前

1935年(昭和10年)に、近江国府は栗太郡瀬田町大江(現在の大津市大江三丁目)付近であると、歴史地理学者によって学会誌に発表された[1]。それまでは、全国的にも国庁の実態はほとんど不明であり、近江国庁の具体的位置や構造も詳細不明で『和名抄』や『拾芥抄』(しゅうがいしょう)によって栗本(太)郡内にあったことが知られる程度であった。

発掘結果

その発表を裏付けたのは、1963年(昭和38年)と1965年(昭和40年)の発掘調査で、近江国庁の中枢部が確認された。国府の広さは8町から9町四方で、その南端中央部に国庁があり、東西2町・南北3町であったと推測されている。国庁地区の中心部には四方を築地(ついじ)塀で囲まれた内郭(政庁)がある。東西72.8メートル(240尺=3分の2町)、南北は推定109メートル(360尺=1町)である。この政庁の建物は瓦積基壇からなる4軒の瓦葺きの建物で、国庁の中軸線を中心に左右対称に配置されていた。基壇の上に東西7間(23.1メートル)、南北5間(15.0メートル)と推定される正殿の前殿があり、その後に南北を1間分小さくしたような正殿の後殿があり、廊が付けられている。前殿の両側には南北に長く延びる東西の脇殿が配置されている。基壇の規模は南北48.5メートル、東西9.2メートルである。この脇殿も前殿と廊で結ばれている。

この政庁の遺構は前後2時期に区分される。前期は奈良時代中頃、後期は同時代末から平安時代初期以降である。そして、10世紀末頃までは存続したと考えられている。

この近江国庁の政庁の発掘調査によって、地方行政機関の中枢部の様子が明らかにされ、その構造が中央政庁の平城宮大極殿朝堂院などの構造に似ており、また、共通する機能を持っていることも明らかになった。この後、近江国庁跡を参考にしながら、各国の国府の推定地や政庁の構造・変遷が明らかになりつつある。

脚注

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参考文献

  • 林博道「近江国庁跡」『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』文化庁文化財保護部史跡研究会監修、同朋舎出版、1991年。ISBN 978-4-8104-0927-7

関連項目


  1. ^ 米倉二郎「近江国府の位置について」『考古学』6-6、昭和10年


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