西條八束 西條八束の概要

西條八束

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/30 03:06 UTC 版)

西條八束
生誕 (1924-11-19) 1924年11月19日
死没 (2007-10-09) 2007年10月9日(82歳没)
居住 日本
国籍 日本
研究分野 陸水学
研究機関 名古屋大学水圏科学研究所
出身校 東京大学
プロジェクト:人物伝
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略歴

1924年(大正13年)11月19日に東京都で生まれる[1]1937年昭和12年)東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)に入学。1942年(昭和17年)に旧制松本高校理科甲類に入学し[1]、湖沼学者でもあった向井正幸とともに木崎湖の透明度測定[1][2]を行なったのをきっかけに、湖沼の研究に魅せられ湖沼学の道に進んだ。1945年(昭和20年)東京大学理学部地理学科に入学[1]、湖沼学者の吉村信吉に師事して各地の湖沼調査を行なった[1][3]1948年(昭和23年)東京大学大学院理学研究科に進む[1]

翌年には東京都立大学理学部助手となっている[1]1958年8月、東京大学理学博士 「湖沼に於ける物質代謝の化学的研究 」。1959年(昭和34年)、名古屋大学理学部附属水質科学研究施設・水圏代謝部門の助教授となり[1]1965年(昭和40年)同教授[1]1973年(昭和48年)9月、水質科学研究施設が名古屋大学水圏科学研究所に改組されたのに伴い、研究所の水圏物質代謝部門教授を経て[1]、1981年・1982年・1987年と同研究所所長を務めた[1]

高度経済成長期後、バブル景気全盛期から崩壊時期に、吉野川可動堰問題、長良川河口堰問題、中海宍道湖干拓問題など陸水学の観点から環境保護を訴え、当時の日本の河川・港湾行政に一石を投じた[要出典]学部も年齢も違う同僚新村猛と仲が良かったが、共に環境問題に関心があり、著名な人物を父親にもつという共通項があったためと思われる。[独自研究?]

1988年(昭和63年)名古屋大学を定年退職[1]、同名誉教授[1]。また愛知大学教養部教授となり[1]1995年平成7年)の退職後は愛知大学綜合郷土研究所において非常勤職員として務めた。

2007年10月9日、肺炎により死去[1]。没後に回想記『父・西條八十の横顔』(風媒社、2011年)が出版され、日本詩人クラブ詩界賞特別賞を受賞した。

役職


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 西條八束会員 著作目録」『陸の水(Limnology in Tokai Region of Japan)』第43巻、日本陸水学会東海支部会、2010年、101-108頁。 
  2. ^ 西条八束 & 林秀剛 2001
  3. ^ 吉村信吉は1947年(昭和22年)1月21日、諏訪湖調査中に事故死している[要出典]


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