藤原顕長 藤原顕長の概要

藤原顕長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/29 08:33 UTC 版)

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藤原顕長
時代 平安時代後期
生誕 元永元年(1118年
死没 仁安2年10月18日1167年12月1日
改名 頼教(初名)→顕教→顕長
別名 八条中納言
官位 従二位権中納言
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇
氏族 藤原北家勧修寺流葉室家
父母 父:藤原顕隆、母:源顕房
兄弟 顕頼、顕能、藤原家政室、立子、栄子、顕長、顕源、隆恵、隆勝、
徳大寺実能室、藤原清隆室、
藤原憲方室、女子、徳大寺実定
藤原俊忠娘・俊子、藤原顕頼
長方、憲頼、為明、泰隆、泰房、長真、徳大寺実定室、藤原雅長室、
建春門院女房堀川
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経歴

天永3年(1122年)、5歳にして従五位下に叙爵。以後、紀伊国越中国三河国遠江国といった国司を歴任する。保元3年(1158年)に参議長寛2年(1164年)に権中納言。

平治元年(1159年)の平治の乱の直後、三条殿の焼失に伴い、後白河上皇が一時顕長邸に仮の御所を営んでいた。この際に上皇が好んで市井の様子を眺めていた顕長邸の桟敷を、上皇に対抗意識を持つ二条天皇親政派の藤原経宗藤原惟方(顕長の甥)が強引に封鎖したことが上皇の激怒を買い、両名の失脚・配流に繋がったことは、つとに知られている。

仁安元年(1166年)に権中納言の職を辞し、翌年卒去。

系譜

出典

関連項目




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