茨木長隆
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出典
- 『室町幕府解体過程の研究』(今谷明、1985年、岩波書店、ISBN 4000022172)
- 『戦国期の室町幕府』(今谷、(新装版)2006年、講談社、ISBN 4061597663、旧版は1975年)
- 『戦国三好一族』(今谷、(新装版)2007年、洋泉社、ISBN 4862481353、旧版は1985年、新人物往来社)
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)「茨木長隆」(今谷執筆)
- 『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(福島克彦、2009年、吉川弘文館、ISBN 4642063218)
関連項目
- ^ 今谷1985、363p。
- ^ 足利義維は将軍候補者が就任する左馬頭に任ぜられ、次期将軍と目されていた。今谷は幕府文書の発給状況などから見て、実質的な統治機能を喪失していた近江の義晴方よりも、堺の義維政権の方が幕府としての体裁が整っていたとして「堺幕府」論を展開した(今谷1985など)。ただし実際には義維はついに将軍となることはなく、他の面からの反論もあって堺幕府論はその後も有力な説とはなっていない。詳細は堺公方#「堺幕府」論を参照。
- ^ 今谷2006、252p。
- ^ このとき、檄文において長隆は「諸宗滅亡この時たるべきか」と記して、諸宗の蜂起を促している。
- ^ 今谷2007、117p。このとき証如は16歳、三好長慶は12歳であった。これをきっかけに晴元と長慶との和睦も翌年に達成された。
- ^ 今谷1985、369pより。『大日本古文書東寺文書之一』『史料綜覧巻十』『京都の歴史3 近世の胎動』(京都市編)『三好長慶』(長江正一)など、従前の畿内戦国史に触れた書籍ではほとんど長隆について触れられていなかったという。
- ^ この時期、室町幕府管領の職は細川家嫡流に独占されており、その歴代の名乗り「右京大夫」の唐名から細川京兆家と呼ばれる。右京兆代(管領代)とはその細川家嫡流を補佐する立場であり、鎌倉幕府末期に御内人を統率した内管領に近いとする(今谷1985、367p)。なお、長隆のほかにもこの時期の管領代として飯尾為清らがいた。
- ^ 今谷2006、310p。
- ^ 今谷1985、417p。
- ^ 『野間建明文書』。福島2009、114p。
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