第一次ソロモン海戦 結果

第一次ソロモン海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 03:05 UTC 版)

結果

沈没に瀕した重巡キャンベラに両舷から近づき、乗員を救出しようとする駆逐艦ブルー、同パターソン。
右舷に大傾斜して沈没中のキャンベラ。
艦首を残して水中に没したキャンベラ。

本海戦では日本海軍が一方的な勝利を収め、その夜戦能力の高さを示した[130]。第八艦隊は「重巡洋艦4隻、甲巡3隻大火災沈没確実(戦藻録)、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻撃沈。軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻撃破」を主張した[131]。これを受けた大本営は、第二十五航戦があげた誤認戦果をあわせ、「米甲巡洋艦6隻、英甲巡洋艦2隻、米乙巡洋艦1隻、英乙巡洋艦1隻、艦型未詳乙巡2隻、駆逐艦9隻、潜水艦3隻、輸送船10隻」「戦艦1隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、輸送船10隻撃沈。甲巡1隻撃破、輸送船4隻撃破・大破、戦闘機49機、爆撃機9機撃墜。味方航空機21機喪失、巡洋艦2隻損傷」と華々しい大本営発表を行った[132]。そして本海戦を「第一次ソロモン海戦」と命名する[133]

実際の戦果は、豪重巡洋艦キャンベラ、米重巡洋艦アストリア、クインシー、ヴィンセンスを撃沈し、重巡洋艦シカゴ、駆逐艦ラルフ・タルボット、パターソンが大破というものだった[134]。また9日昼間、駆逐艦ジャービスがターナーの命令に背いて独自に戦場を離脱し、第二五航空戦隊に撃沈された[135]。アメリカ軍は、この艦も第一ソロモン海戦の被害に加えている。連合軍艦隊は471発を発射して最低10発が命中した[136]

日本側の損害は、鳥海が一番砲塔と後部艦橋を破壊された。青葉は被弾により2番魚雷発射管が炎上、1番・2番魚雷発射管が使用不能になった[110]。加古と古鷹については、被害報告はなかった。なお、古鷹の戦闘詳報は戦後アメリカに送られ返還されなかった[137]。衣笠は左舷舵取機室が故障し、第一機械室に火災が発生した他、若干の浸水があった[110]。天龍と夕張の被害は最小だった。第八艦隊は1844発を発射し、159 - 223発を命中させた[138]

この攻撃では、ツラギ奪還に向かうはずだった海軍陸戦隊輸送船団がアメリカ潜水艦の攻撃で撃退されたため、ガダルカナル・ツラギの早期奪還作戦は頓挫した。さらに本来の主目的であったはずの上陸船団への攻撃は行われなかったため、まだ揚陸されていなかった重装備などは無傷であった。だが連合軍は日本軍の攻撃を懸念し、輸送船団は揚陸作業を中止[139]。重装備も揚陸したものの数は少なく、大半の重装備とレーダー設備やを積みこんだまま上陸船団は退避した。上陸船団の攻撃は行われなかったものの、物資の揚陸作業を妨害し中止に追い込んだため、第八艦隊の攻撃は一定の効果をあげた。ミクロで見れば重装備も含む物資を一定数揚陸したものの、マクロでは予定量より少なくアメリカ軍海兵隊の物資に欠乏し、1日の食事は2食に制限された。この状況下でアメリカ海兵隊は一木支隊と対峙し、この戦闘で多くの物資を消耗し危機に陥ったが戦闘後にアメリカ軍は膨大な軍需品のガダルカナル揚陸に成功し、飛行場および橋頭堡が強化された。アメリカ軍はこの基地をカクタス基地、飛行場はヘンダーソン飛行場と名づけ、後の海戦で重要な役割を担うことになった。こういった見地から、この海戦は日本側の戦術的勝利、戦略的敗北(限定的な戦略的成功)となり、後の一連のソロモンの戦い(第二次ソロモン海戦第三次ソロモン海戦)に影響を与えることとなる。しかし、たとえ第八艦隊が揚陸物資と輸送船団を完全破壊したところで、連合軍の圧倒的物量と輸送能力、ガダルカナル島がオーストラリアに近いという地理的関係上、また零式艦上戦闘機の航続距離の関係から日本軍の制空権掌握に限界があった以上、最終的な結果は変わらなかったという意見もある[140]

ガダルカナル奪回作戦を担当する第17軍の参謀長である二見秋三郎陸軍少将の日記には、第八艦隊が敵空母を恐れて退避した事への不満と、ポートモレスビーの占領を急がねばならないという決意が書かれている[141]。海軍では敵輸送船を結果として殲滅せんめつできなかった(最終目的を果たさなかった)事に山本五十六連合艦隊司令長官は激怒し、第八艦隊の海戦功績明細書に「こんなものに勲章をやれるか」とその報告書を握り潰そうとした。しかし、連合艦隊参謀の説得を受け功績を認めたという[142]。ただし、山本五十六は三川の第八艦隊が事前に提出した夜間強襲作戦に消極的であり、打って変わったような対応となった[118]。また山本の幕僚である宇垣纏参謀長も、第八艦隊の行動を「損害少なく弾薬もまだあるのに、なぜ撤退する必要があるのだ」と批判しているが、同時にガダルカナル島周辺の偵察をおざなりにしている航空隊と潜水艦に対しても「本作戦の重要性をまったくわかっていない」と指摘している[143]

今後のガダルカナル島での戦いの帰趨を変える可能性があった船団への攻撃が行われなかった理由は、アメリカ空母部隊による航空攻撃への恐れから、早期退避の必要があったという有力な見方がある。鳥海の戦闘報告書は「小成に甘んじてしまった」と評している[144]海軍反省会では、海軍兵学校での伝統教育である海上決戦至上主義的心理が司令官の判断に与えた影響が大きかったのではないかと振り返っている。日本海軍は「艦隊決戦主義」を標榜しており、輸送船破壊等の通商破壊活動を全く考慮しないという風土があった。その為、山本が指示した輸送船殲滅という目的の本質を八艦隊の幕僚は理解しておらず、山本自身も、輸送船破壊の目的と意図を八艦隊に説明しなかったため、結果として敵戦闘艦の殲滅だけで目的を達成したと八艦隊は勘違いしたということである。

一方で、当時の永野修身軍令部総長が第八艦隊司令長官三川中将に対して「無理な注文かもしれんが日本は工業力が少ないから、極力艦をこわさないようにして貰いたい」という注意を与えていたことが早期退避の決定に影響を与えたという説もある[145]。艦隊参謀であった大前敏一の戦後の証言によると「米空母部隊の無線交信が『鳥海』でも盛んに聞こえていたことが敵空母が近距離に存在していると判断する材料になり、早期撤退の結論に達した」ということであるが、敵機動部隊は南方洋上遠くにあり戦闘圏内にはいなかった。だが米機動部隊では、空母ワスプのフォレスト・シャーマン艦長(後、太平洋艦隊航空参謀長)がフレッチャー司令官に日本軍の追撃を再三要請していた[146]。シャーマンの要請はフレッチャーの消極性によって却下されたが、もし米機動部隊が積極的に第八艦隊を追撃していたら、被害は加古撃沈どころではなかったとされる[146]大西新蔵第八艦隊参謀長は、第八艦隊の離脱が遅延してアメリカ軍機動部隊によって大損害を受けていれば、たとえ輸送船団を撃滅しても、泊地に再突入しなかったのと同じように批判されるだろうと述べている[147]

三川は船団を攻撃しなかったことについて、軍艦を「もう一隻でも失ってはいけないという条件が課されていた」、「突入以前に、敵機動部隊の蠢動が察知され、(中略)夜明け前に敵の航空圏外に脱出しなければ危険だ、と判断した」と記している[148]。また、ラバウルで陸軍の強さを吹き込まれて、それを信じており、艦が惜しかったので陸軍に後を任せたのだが、「陸軍があんなに弱いとは思わなかった」とも記している[149]

戦術的に完敗したアメリカ軍は苦渋に満ちており、戦後、太平洋戦史を著したS.E.モリソンは以下のようにこの海戦をまとめている。

これこそ、アメリカ海軍がかつて被った最悪の敗北のひとつである。連合軍にとってガダルカナル上陸の美酒は一夜にして敗北の苦杯へと変わった。 — S.E. モリソン、アメリカ海軍作戦史

二カ月後のサボ島沖夜戦(エスペランス岬沖海戦)においては、第一次ソロモン海戦でアメリカ軍が犯したものと同じミス(索敵の不十分、敵味方の誤認)を日本軍が犯すことになった。


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