田中マルクス闘莉王
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田中 マルクス闘莉王(たなか マルクストゥーリオ、ブラジル名:マルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカ;Marcus Túlio Lyuji Murzani Tanaka、1981年4月24日 - )は、ブラジル・サンパウロ州パルメイラ・ド・オエスチ出身の元プロサッカー選手、YouTuber。現役時代のポジションはディフェンダー(センターバック)だったが、フォワードとして起用されることもあった。元日本代表。
注釈
- ^ プロ同期加入は、林卓人、河野淳吾、西嶋弘之、寺内良太、梅田直哉、李漢宰がいる[20]。
- ^ 小崎仁久は前述のケネディの故障に加え、攻撃陣の故障離脱、特に中村直志の5月での戦線離脱と前年14ゴールを挙げた玉田圭司が古傷の影響でコンディションが上がらず5得点に終わったことを挙げている[48]。
- ^ この試合では相手選手との接触により肩から落下して左肩を脱臼する怪我をしたが、左腕を自分で肩に押し込んでプレーを続行した[68]。チームメイト達はその迫力に感化されたと言われている[68]。
- ^ 予選を共に戦ってきた仲間である鈴木啓太や山瀬功治らの落選にショックを受け、闘莉王は鈴木のユニフォームを、田中達也は山瀬のユニフォームを共に着用して記者会見に臨み、「アテネでは、一緒にやってきた全員の思いを背負ってやろうと思う」と仲間達への思いを述べた[69]。
- ^ 日本人が笠戸丸に乗船し、ブラジルに移住開始したのは、1908年であるが[98]、1929年、コーヒー農場で働くために、家族全員でブラジルに移住した時には、 12歳であった[98]。のちに病気で家族は離散、当時ブラジルに渡った移民の中には病死や、作物が不作で餓死することは、珍しいことではなかった[98]。闘莉王はプロデビューのクラブを複数オファーの中から祖父の出身地であるサンフレッチェ広島に選び[99]、日本国籍取得の際の本籍地の欄にも、広島と記入している[100]。
- ^ 父方の親戚に浪曲のプロ歌手もおり、レコードも発売している[111]。祖母の証言によれば、芸達者なところや運動能力の高さがよく似ているという[111]。
- ^ これまでに日本国籍を取得してワールドカップに出場したブラジル出身選手は呂比須ワグナーと三都主アレサンドロがいる[117]。
- ^ 3月11日の地震発生時、ベガルタ仙台との試合へ向かう列車に乗っていた[118]。地震で列車が停止し、仙台へは到着しなかった[118]。
脚注
- ^ 矢内 2009、12頁
- ^ 朝日新聞 2010年6月14日付夕刊、13頁
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- ^ (日本語) 【緊急謝罪】「お詫びいたします!ヘボじゃない!」浅野拓磨の神ゴールでドイツ戦奇跡の勝利に闘莉王が前言撤回の大反省 2023年6月29日閲覧。
- ^ “SAMURAI BLUE 選手情報”. 日本サッカー協会. 2011年8月27日閲覧。
固有名詞の分類
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