王静修 王静修の概要

王静修

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 23:59 UTC 版)

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王静修
プロフィール
出生: 1877年3月31日
光緒3年2月17日)
死去: 不詳
出身地:  大清国盛京将軍管轄区奉天府承徳県
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 王静修
簡体字 王靜脩
拼音 Wáng Jìngxiū
和名表記: おう せいしゅう
発音転記: ワン ジンシウ
ラテン字 Wang Ching-hsiu
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事績

日本に留学して陸軍士官学校第8期を卒業し、帰国後の1914年民国3年)に保定陸軍軍官学校戦術教官となった。1916年(民国5年)に北京政府で陸軍営長となり、1918年(民国7年)に陸軍参謀、1920年(民国9年)に陸軍第7師長と昇進している。1926年(民国15年)に東三省陸軍講武堂黒竜江分校教育長に任ぜられ、1929年(民国18年)に黒竜江省国防籌備処参謀長となった[1]

満州事変勃発後、王静修は満州国建国活動に参加し、1932年(民国21年/大同元年)に中央陸軍訓練処処長となった[1]。同年3月9日、満州国が正式に建国されると、翌10日に軍政部次長に任命され[2]、また馬政局局長も兼ねている[3]1934年康徳元年)2月28日に軍政部次長を退任し[4]、以後、第5軍管区司令官(1934年11月15日就任)、第1軍管区司令官(1937年6月19日就任)、第6軍管区司令官(1938年12月就任、1939年6月退任)と歴任した[5]。なおこの間の1936年(康徳3年)8月24日には、王殿忠と共に陸軍上将に任命されている[6]1941年(康徳8年)12月18日に参議府参議に任命され、満州国が崩壊するまでその地位にあった[7]。以後、その行方は不詳である。

参考文献

  • 『大満洲帝国名鑑』挙国社、1934年。
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1

  1. ^ a b 『満洲帝国名鑑』「国都」、21頁。
  2. ^ 「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。
  3. ^ 劉ほか編(1995)、1164頁。
  4. ^ 郭主編(1990)、1757頁。
  5. ^ 郭主編(1990)、1864-1866頁。
  6. ^ 「満州国上将二名」『東京朝日新聞』昭和11年(1936年)8月25日。
  7. ^ 郭主編(1990)、1769頁。


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