海禁 海禁の影響

海禁

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海禁の影響

海禁政策は海防や華夷秩序の確立を目指した政治・国防を重視した政策であり、強権をもって新秩序を打ち立てる王朝建国期には一定の意義が存在した。元末明初の中国沿岸部は華夷混合のなか明朝支配が徹底されない混乱状態にあったが、海禁は沿岸部に新秩序を構築する一助を成し[54]、民間貿易停止後は朝貢貿易を補完して冊封体制の構築や国内経済システムの補強に貢献した。清初においても海禁は鄭氏政権弱体化に一定の貢献を果たしている。しかし海禁は沿海地方の経済的発展を妨げまた税収を抑制する、経済・税収と相反する政策であった。そのため、新秩序が安定期に入ると海禁は反発を招き、社会的不安定化の要因となった。海禁を国是とした明朝においても、最終的には国家財政の困窮や後期倭寇という形の社会的圧力に屈し、海禁を緩和せざるを得なかった。

中国史学会では、中国が西洋に立ち遅れた原因は海禁に有ると考えられている。つまり、16世紀までの中国経済の発展は西洋に対しても大きな差がなかったが、国家間・地域間の相互刺激を通じて社会や経済の発展を促す貿易が海禁によって抑制されると中国の成長活力は減じられ、西洋に遅れを取ることになったとするものである[55]

一方で東南アジアや肥前の陶磁器産業のように海禁により成長が促進された事例も存在する。明朝の海禁によってアジア市場に中国陶磁器の供給が途絶えると、その穴を埋めるべくベトナムカンボジアタイでは輸出用陶磁器が盛んに製造されて技術や生産量が伸長し、東は日本から西はエジプト・トルコまで広く諸外国に輸出された[56]。しかし東南アジアの陶磁器産業は中国製品の模倣の域を脱しきれず、海禁が弛緩すると衰退する。清代前期の海禁に乗じて成長を遂げた肥前陶磁器も海禁停止後に東南アジア市場から駆逐されるが、日本国内やヨーロッパ市場に活路を見出しその後も発展を続けた[57]

また朝貢貿易を認められた国家もしくは政権にとり、海禁は独占的な貿易を約束し政治面・財政面で恩恵を与えてくれるものであった。この恩恵を最も享受した国家は琉球王朝であった。民間貿易を禁じた明朝も硫黄や蘇木など自国に不足する物産の輸入を必要としており、また沿海部民衆の出海欲求をなだめるためにも貿易は欠かすことは出来なかった。そのため明朝は朝貢国の入朝を待つだけではなく、琉球王朝に優遇を与えて中国とアジア諸国との中継貿易を任せた。一般に朝貢国の貢期は3年もしくは5年であったが、琉球王朝は1年1貢と格段に有利な入朝を認められ、また貿易・外交に携わる在琉華人(閩人三十六姓)や大型海船を賜り、明朝の後援を背に日本や東南アジア諸国と盛んに貿易を行った[58]。しかし海禁の弛緩とともにその貿易は衰退し、1609年の琉球征伐により島津氏の支配下に置かれた。

室町幕府にとっても日明勘合貿易は有力な収入源であり、また銅銭鋳造を行っていなかった幕府にとって、銅銭供給源である中国との独占的な貿易は貨幣鋳造権と類似の権限として機能した。室町末期に貿易権は大内氏等の有力大名から協力を引き出す政治的交渉材料ともなった。

明代における海禁は南洋華人の増加にも寄与している。宋元代の自由貿易時代にも海外に移住する中国人は存在したが、明代に海禁が敷かれるとそれに伴う罰則は出海者の帰国を阻む障壁となり、彼等に海外定住を強いるものとなった[59]。こうして一度華人社会が形成されるとその縁故を頼りに後続の者を呼び寄せるものとなり、明代後期から清代にかけて東南アジアへ華人が大挙して進出することになる。

明代において海禁の直接の目的は倭寇の禁圧にあったが、実際には中国と諸外国との経済的連関を求める人々を倭寇へと追いやり逆に倭寇跳梁の原因となっていた[36]足利義持による日明勘合貿易の中断期間(1411年 – 1433年)には一旦沈静化していた前期倭寇が再び活性化して中国各地を襲撃しており[60]、後期倭寇は貿易を求め出海した中国人の集団であった。また海禁によって日本・琉球・東南アジア間で中継貿易が活性化すると、そこに倭寇が介在する余地が生まれ倭寇が存続の条件を与えたとも指摘されている[61]


注釈

  1. ^ 違禁下海律とは『明律』に収録された法令の一つで、元代の市舶則法を踏襲して定められた貿易を統制する法令である。これは、禁制品の持ち出しや関税納入などの適正な手続きを欠いた貿易を禁止するものであったが、同時に適正な貿易は容認するものでもあった。[8]
  2. ^ モンゴル帝国の成立は東西貿易を活性化させたが、その間に流通媒介であった銀の生産に特段の伸長が有ったわけではなく、元朝は効率的に銀を循環させることでその不足を補っていた。そのため、こうした政策が行き詰まりを見せ元末の混乱の中で銀循環が滞り始めると、「14世紀の危機」と呼ばれる世界的な経済収縮が発生した。こうした中で誕生した明朝は、里甲制を通じて掌握した人民から直接生産物や労働力を徴発し、あるいは不兌換紙幣である宝鈔を発行して銀や銅貨流通の抑制を試みた。この銀に依存しない国内経済を国外貨幣経済の侵食から守るためには、国家による貿易の直接管理が必要であったものと思われる[11]
  3. ^ 民間貿易が禁止されるまでは、海防を受け持つ海禁と貿易統制を行う違禁下海律は別個に機能するものであった。しかし、海禁は応急的な政策として始められたと見えて法的裏付けが与えられておらず、三市舶司廃止後に海禁の法的根拠は違禁下海律に求められ、両者が一体化することで海禁に貿易統制機能が備わった。
  4. ^ a b c 「国初不許寸板下海」は、洪武期の海禁政策は一片の板の下海も許さないほど厳格なものだったとする、明代中期に唱えられた評語である。しかし多くの場合、洪武期の海禁政策は沿岸貿易を容認していたとされ、この評語も明代中期に厳格な海禁を実行するため洪武期の政策を誇張したものと説明される。しかし近年では、洪武期にも一時期は沿岸貿易が禁止されておりこの評語は明初の状態を示したものとして十分根拠があるとも指摘されている[13]。ここでは(佐久間1992)に従い、洪武期に沿岸貿易は容認されていたとする立場から解説を行う。
  5. ^ 洪武帝に国内海運まで禁ずる意図は無かったが、「下海の禁」を字義どおり解釈した地方政府により沿岸貿易まで禁じられることもあった。1392年にはこれを緩和するよう上奏があり、洪武帝勅栽の下、沿岸貿易を認める決定が下されている[注 4][15]
  6. ^ 朝貢使節の持ち込む交易品は国王が明皇帝に贈る「進貢物」と使節団の持ち込む「附搭貨物」に分けられ、進貢物に対しては明皇帝より回賜が反対給付された。貿易の主力は附搭貨物にあったが、こちらはまず明朝が鈔価建てで買い上げを行い(官収買)、朝貢国はその宝鈔(明の紙幣)を使って民間から中国商品を購入した。附搭貨物のうち官収買の残りもまた民間貿易に回された。鈔価建ての官収買は公定価格で行われるものであったが、明代中期には鈔の市価が暴落し、明初の法定価である銀1につき鈔1から、永楽5年には銀1両につき鈔80貫、弘治年間以降は鈔1貫が銀3(0.003両)と3/100にまで下落していた。しかし明朝は鈔価の下落に応じた公定価格の改訂を行わず、明初ほぼそのままに据え置いていた[19]
  7. ^ 明初における罰則は杖百と海賊に対するものとしては軽いものであったが、正統年間には正犯は極刑、親族は辺境へ流刑となっていた[24]
  8. ^ 明朝は元々銀流通を禁止し代りに宝鈔を流通させようとしていた。しかし宝鈔は市場の信用を得られずに鈔価は暴落を続け1530年代に銀流通禁止は解除された。その後、経済成長や銀納の進行、北辺軍事費の増大などの影響から銀需要は拡大を続けるが、銀資源が枯渇していた明国国内では需要を賄うことが出来ず、嘉靖年間には慢性的な銀不足に陥っていた。

出典

  1. ^ 山本2002 135頁、檀上2005 145頁
  2. ^ 許瀚前掲書、33-34頁
  3. ^ a b 英領馬来,緬甸及濠洲に於ける華僑、支那馬来間の交通、明代、P19-20、1941年
  4. ^ 日本から見た東アジアにおける国際経済の成立永積洋子、城西大学大学院研究年報15 ( 2 ) , pp.67 - 73 , 1999-03
  5. ^ 佐久間1992 369頁
  6. ^ 熊1997 90頁
  7. ^ 佐久間1992 197-199頁、熊1997 90頁、檀上2005 147,162頁、上田2005 95頁
  8. ^ 檀上2004 10頁
  9. ^ 檀上2004 9頁、檀上2005 148頁
  10. ^ 佐久間1992 52-53頁、檀上2004 10頁、檀上2005 148頁
  11. ^ 上田2005 91頁、岡本2008 52頁
  12. ^ 佐久間1992 224頁、檀上2005 149-150頁
  13. ^ 檀上2004 22, 33-34頁
  14. ^ 佐久間1992 86-87,200頁、熊1997 90頁、檀上2005 151頁
  15. ^ 佐久間1992 202頁
  16. ^ 佐久間1992 121-122頁、檀上2005 159-163頁、上田2005 152頁
  17. ^ 檀上2005 163頁
  18. ^ 佐久間1992 22,151頁、檀上2005 164-165頁
  19. ^ 佐久間1992 15-20頁
  20. ^ 佐久間1992 13-15頁、檀上2005 165頁
  21. ^ 佐久間1992 21頁、檀上2005 165頁
  22. ^ 佐久間1992 366頁、檀上2005 166-169頁
  23. ^ 佐久間1992 362頁、山根1999 71頁、檀上2005 165頁、上田2005 200頁
  24. ^ 佐久間1992 35頁、檀上2004 14頁
  25. ^ 佐久間1992 227頁、檀上2004 14-15頁、檀上2005 166頁
  26. ^ 佐久間 1992 241頁
  27. ^ 佐久間1992 279頁、熊1997 113-114頁
  28. ^ 佐久間1992 230-238頁
  29. ^ 佐久間1992 230-231頁、熊1997 92,96,100頁
  30. ^ 佐久間1992 248-249頁、熊1997 103頁、濱島1999 162-163頁、上田2005 199頁
  31. ^ 佐久間1992 262頁、熊1997 104-105,108-110頁
  32. ^ 佐久間1992 211-212頁、熊1997 105-107頁
  33. ^ 佐久間1992 362-363頁、熊1997 107-108頁、檀上2004 21頁、上田2005 200-204頁
  34. ^ 佐久間1992 297-299頁、熊1997 110-111頁
  35. ^ 佐久間1992 363頁、檀上2004 22頁
  36. ^ a b 佐久間1992 224,323頁、熊1997 118頁、濱島1999 165頁、檀上2004 22頁
  37. ^ 佐久間1992 37,253,365頁、檀上2005 169頁、橋本・米谷2008 89頁
  38. ^ 佐久間1992 293頁、熊1997 98頁、岡本1999 47-48頁、檀上2005 169,171頁
  39. ^ 佐久間1992 323-343,366-368頁
  40. ^ 佐久間1992 368頁
  41. ^ 檀上2004 21-24頁
  42. ^ 佐久間1992 369頁、劉1993 94頁、細谷1999 332頁、山本2002 136頁、上田2005 302頁、渡辺・杉山2008 118頁
  43. ^ 岡本1999 56頁
  44. ^ 岡本1999 58頁
  45. ^ 劉1993 96頁
  46. ^ 劉1993 95頁、岡本1999 486頁
  47. ^ 蔡1994 211頁
  48. ^ 佐久間1992 370頁、劉1993 96頁、濱島1999 461頁、山本2002 136-137頁
  49. ^ 岡本1999 60-63頁
  50. ^ 劉1993 97頁、山本2002 136頁
  51. ^ 山本2002 137-138頁、上田2005 397頁
  52. ^ 劉1993 110-111頁、松浦1994 174頁、濱島1999 463-464頁
  53. ^ 劉1993 97,112頁、上田2005 399頁
  54. ^ 佐久間 1992 88頁、檀上2005
  55. ^ 熊1997 89頁
  56. ^ 佐久間1992 217-219頁、桃木1997 614-615頁
  57. ^ 桃木1997 614-615頁、大橋 2004
  58. ^ 上田2005 160-164頁、上里2008 62頁
  59. ^ 佐久間1992 227-229頁、檀上2005 154頁
  60. ^ 佐久間1992 133-134頁
  61. ^ 田中1997


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