流行歌 戦後の歴史

流行歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 05:06 UTC 版)

戦後の歴史

藤山一郎

敗戦後、日本のレコード業界は、さっそく各地に従軍や疎開していた歌手や作曲家・作詞家を呼び戻し始め、翌年から早くも活動を再開した。この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心し、デビューしたのが美空ひばり並木路子など「第三世代」とでも呼ぶべき歌手である。特に並木と霧島昇がデュエットした「リンゴの唄」は戦後の解放的な雰囲気を謳歌する曲として有名である。

だがこのことが、戦前からの歌手にとっては明暗を分けることになった。特にあおりを大きく受けたのが初期の歌手である。昭和一桁の時代から歌い続けている彼らは、古いイメージから脱却しようとするレコード会社の意向にそぐわない存在であった。このため自然と冷や飯食いの待遇となり、多くの歌手が引退を余儀なくされた。移籍して活動を続ける者もあったが、戦前のようなヒットが飛ばせず苦しむことが多かった。戦後も変わらずヒットを飛ばすことが出来たのは藤山一郎などごくわずかな歌手のみである。一方、第二世代、昭和10年代中盤デビューの歌手らは、まだ若く、新時代でも活躍した。

また、レコード会社の陣容も変化した。コロムビア・テイチクの強さは変わらなかったが、ポリドールが東海林太郎の移籍と上原敏の戦病死により大きな柱を失い沈下してしまう。代わりに岡晴夫など第二世代の歌手を多く擁していたキングが台頭し始めた。この時期の3社の陣容は以下の通りである。

この新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続き、その中で藤山一郎と奈良光枝のデュエットによる「青い山脈」など、戦後流行歌が数多く生まれた。

終戦直後の混乱期に、各社で戦前の曲で戦時色のないものが再発された。戦争直後で混乱していたのか、松山時夫の「片瀬波」を誤って松平晃の曲として再発し、後世ファンを混乱させることもあった[注 6]

岡晴夫

次第に若い戦後派の勢力が増し、音楽性も戦後の明るさを強調する目的から戦前とは違う発展を遂げ始めた。これに戸惑ったのが戦前派の歌手である。彼らの多くは昭和28年(1953年)を過ぎる頃からヒットが出にくくなってきた。特に流行歌界に衝撃を与えたのが、藤山一郎のレコード専属歌手としての引退宣言である。

初期歌手の中で最前線に立っていた藤山も、昭和28年以降ヒットが出づらくなっていた。さらに彼自身、今の流行歌界の現状に強い不信感をおぼえ「今の唄はパチンコ・ソングが多い」と批判していた。藤山は昭和29年(1954年)に引退を決意し、23年間のレコード専属歌手生活に終止符を打った[注 7]。以降、本来の西洋古典音楽に戻り、NHKの音楽放送を通じてクラシック歌曲、ホームソング、家庭歌謡の普及に努めた。また、紅白歌合戦では東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、社歌、校歌などの作曲を手掛け、指揮者・作曲家としても活躍した。

こうして戦前派の歌手は昭和30年代半ばまで紅白歌合戦に出場していたとはいえ、ヒットの表舞台からほぼ去り、流行歌界は演歌系歌手の戦後派の天下となった。

戦争体験と歌謡

戦時歌謡は戦後もシベリア抑留に遭い境遇と生還の思いを現地で歌った「異国の丘」やシベリア抑留からの復員の喜びを描いた「ハバロフスク小唄」[注 8]、異国の戦犯裁判の悲劇を歌った「ああモンテンルパの夜は更けて」、引き上げ船を歌った「かえり船」などがある。また、インドネシアの大衆歌謡「ブンガワンソロ」が戦後藤山一郎、松田トシによって歌われるなど、日本軍占領地の唄が輸入された。

戦後、戦時歌謡の作詞家・作曲家の中には戦争賛美に加担したことを「戦犯」といわれ、また自身でも悔い、罪悪感にさいなまれた者も少なくない。古関裕而は大戦末期に作曲した『比島決戦の唄』について「私にとっていやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。いまさら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、幻の戦時歌謡としてソッとしてある。」と証言している[4]

戦後音楽の変容

戦前派の撤退を横目に、新人歌手の開拓は続いていた。ビクターは鶴田浩二三浦洸一、テイチクは三波春夫、コロムビアは島倉千代子村田英雄がそれぞれデビュー。特にキングは昭和20年代末から30年代にかけて、春日八郎三橋美智也をデビューさせ、戦前とは比べ物にならない勢いを誇った。また石原裕次郎ザ・ピーナッツなど、新しいタイプの歌手も次々登場した。特に、ザ・ピーナッツは当時の日本における洋楽のカバーと発展しつつあった演歌という二つの流れの中に当時斬新であった和製ポップスを持ち込み、以後の日本歌謡における多ジャンル化への契機ともなった。

このように戦後派が天下を取る状況となったことにより、流行歌の変容は昭和35年(1960年)を境に流行歌の音楽性は大きく変容した。器楽的な部分はなりを潜め、のちの「演歌」や「歌謡曲」に通じるような曲が多く生まれた。このため、この時期の「第四世代」ともいうべき歌手を「流行歌歌手」として認めない意見も多い。

演歌との分裂

昭和38年(1963年)、コロムビアの一レーベルであったクラウンが「日本クラウン」として分離独立し「演歌」を専門とするようになる。流行歌と「演歌」が分裂した。

LPレコード

またその前年、昭和37年(1962年)にはSPレコードの生産が打ち切られた。昭和30年代に入って急激に生産量が増えたLPレコードにSPレコードは圧倒されていたが、ここに至ってついに駆逐されるに至った。現象としては新旧技術の交替であり偶然時期が一致したにすぎないが、SPレコードは長らく流行歌の担い手であっただけに、流行歌の命脈が尽きかけていることを暗示する出来事となった。

終焉とその後

同時進行的に英米からフォークソングザ・ビートルズといった新しい音楽が大量に流入し、ビートルズなどに影響を受けたグループ・サウンズなども生まれ、日本の音楽界は一気に多様化することになる。こうなるともはや日本の大衆音楽はジャンルとしてひとくくりに出来るものではなくなり、音楽ジャンルとしての「流行歌」は1960年代初めをもって事実上の終焉を迎えた。その後、流行歌にたずさわった歌手や作詞家・作曲家たちは、演歌歌手に転向したり歌謡曲と違う分野に転身したりと散り散りになり、やがて多様化する音楽分野の波の中に埋没して行った。

1960年代にデビューした弘田三枝子がザ・ピーナッツの和製ポップスに続いてリズム・アンド・ブルースのジャンルを日本に持ち込み、日本歌謡界における楽曲ジャンルの多ジャンル化に拍車が掛かった。流行歌手出身で演歌歌手的なスタンスをとっていた美空ひばりも1989年に死去し、以後1990年代J-POPやラップなどのジャンルが誕生するなど、現在に至るまで日本の楽曲は多種多彩なジャンルが生まれている。


注釈

  1. ^ アンソロジー形式のものもあるが途中で曲が切られる。
  2. ^ 映画の主題歌や企画盤ではこの限りではない。
  3. ^ 藤山は本名増永丈夫といって音楽学校が将来を期待するクラシック音楽生だった。
  4. ^ 地方から老母が戦死した息子を弔いに招魂社(靖国神社)に来る姿を描いた歌で、招魂社讃美の歌。しかしこの老母が都会や戦時体制にすれていない姿に描かれており、当時の戦時体制がそれまでの常識に外れた異常なものであることを風刺した歌とも読める。[要出典]
  5. ^ ただし実際には前線の兵士の間でも支持を得てヒット曲となった。
  6. ^ この「松山時夫」=「松平晃」については「片瀬波」作詞者の高橋掬太郎が真っ向から否定しているが、今も一部の楽譜集には誤って松平晃の曲のまま掲載されている。
  7. ^ ステレオ録音の時代になって、過去のヒット曲を再録音することはあった。
  8. ^ ただしこの曲は収容所で覚えた歌を書き起こしたものであったため、発売後に、昭和15年林伊佐緒による『東京パレード』の替え歌だったとわかり発売中止になった。
  9. ^ キングレコードや日本コロムビアは、歌手によりSP・モノラル録音とステレオ再録音の両方を復刻することが多い。
  10. ^ 他にも本人が既に死亡している場合、別の歌手に歌わせて無理矢理にステレオ音源として収録し復刻にあてる例もある。こうなるともはやカヴァーであって「復刻」ですらないが、レコード会社はこの矛盾について一切触れることなく販売している。

出典

  1. ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年、397頁。ISBN 4-309-22361-3 
  2. ^ http://www.discogs.com/.../Bing-Crosby-White-Christmas/.../2...[リンク切れ]
  3. ^ 佐藤洋希「放送における「日本国民音楽の確立」
  4. ^ 古関裕而『鐘よ鳴り響けー古関裕而自伝』主婦の友社 1980年






流行歌と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「流行歌」の関連用語

流行歌のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



流行歌のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの流行歌 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS