河越城の戦い 背景

河越城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/25 06:34 UTC 版)

背景

室町時代後期から、関東地方の覇権を巡り、古河公方関東管領が対立し(享徳の乱)、さらに関東管領の上杉氏の内部において関東管領を世襲する本家筋の山内上杉家相模武蔵を地盤に力をつけた庶家の一つ扇谷上杉家とが対立(長享の乱)してきた。その間隙を縫い、扇谷上杉家領であった相模において北条早雲が台頭、扇谷方の大森氏三浦氏を滅亡させるなど勢力を広げた。早雲の子の北条氏綱は、永正の乱で古河公方、関東管領双方が内紛で混乱する中、武蔵に進出し、江戸城、次いで天文6年(1537年)に武蔵の枢要の地であり扇谷上杉家の当主上杉朝定の居城・河越城を落とし、扇谷上杉家を滅亡寸前まで追いつめていた。翌年には国府台の戦いにおいて、扇谷上杉家と協力関係にあった小弓公方足利義明を滅ぼして房総半島方面へも進出を始めた。

しかし、氏綱が没し、跡を継いだ嫡男北条氏康は継承早々に一大危機を迎える。天文14年(1545年)7月下旬、今川義元が関東管領の上杉憲政と内通して背後から挙兵、駿河の北条領に侵攻する。氏康は駿河に出陣するものの武田氏までもが出陣してきたために状況は不利であり、更に在陣中に両上杉の大軍によって河越城が包囲されたという状況が知らされた。そのため10月下旬に武田晴信(信玄)の斡旋で義元に譲歩することで屈辱的ながらも和睦を成し遂げた(第二次河東一乱)。11月初旬には誓紙を交換した後に条件が履行され、氏康は挟撃されている絶体絶命の危機の中で西方を収め、関東方面へ転戦できる状況を得た。

関東方面では氏康の妹婿であった古河公方の足利晴氏は、関東管領(山内上杉家)に支援され、路線を変更して兵を動員、山内上杉家と扇谷上杉家の両上杉家も和睦し、三氏は同盟を締結して武蔵を確保するため共通の敵・北条氏への総反撃を決定、一部の北条方の武士を除く関東の武士すべてに号令をかけ、上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏それぞれが自ら自軍を率いて、北条氏の拠点・河越城の奪還を開始した。


注釈

  1. ^ 「夜戦」は「やせん」と音読みされる場合もあるが、音声上では「野戦」との区別のため、しばしば訓読みで「よいくさ」と読まれる。

出典

  1. ^ 川越市立博物館『常設展示図録』、2023年版、50頁。
  2. ^ 小和田哲男『戦国合戦事典』
  3. ^ a b 長塚孝「氏康と古河公方の政治関係」黒田基樹編 『北条氏康とその時代』 戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月。ISBN 978-4-86403-391-6 P247-248.
  4. ^ 西股総生『河越夜戦』
  5. ^ 山口博『北条氏康と東国の戦国世界』夢工房、2004年、p29。
  6. ^ a b 城郭研究会(代表:黒嶋敏)「中世の河越城-その成立と景観-」(初出:『史友』31号(青山学院大学史学会、1999年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-044-1






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