河越兼字とは? わかりやすく解説

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河越兼字

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 03:32 UTC 版)

 
河越兼字
時代 江戸時代
生誕 寛永5年(1628年)6月3日
死没 元禄16年(1703年)6月8日
改名 行忠(行久)→賢充
別名 源五郎(通称)、源兼字、兼字王、当兼王、清原賢充、中原賢充
戒名 清浄
官位 従五位上・兵庫頭
氏族 中原朝臣平田家庶流河越氏
広澄流清原朝臣
王氏
源氏
父母 父:河越重忠、母:平田職広女(平田職忠養女)
養父:舟橋相賢、河越賢在
兄弟 真継久忠(玄偉)、兼字賢在[1]
兼躬
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河越 兼字(かわごえ かねな)は江戸時代地下官人有職家源兼字兼字王当兼王清原賢充中原賢充とも。ただし源兼字、兼字王、清原賢充の名前は後世の資料にしか見えない。

概要

兼字の実父は河越重忠である。重忠は松永久秀の旧臣である河越宗也(重宗)の子で、宗也は天正5年(1577年)に松永氏が滅亡した際に京都に居住し、娘が平田職忠に嫁いだため平田家で同居したという。宗也の娘と職忠の間に生まれた娘は重忠に嫁ぎ、兼字と河越賢在真継久忠を産んだ[2]

地下家伝』によれば、元来は父方の河越氏を継承していたが、舟橋相賢の養子となり、早世した河越賢在の名跡を相続した。また、伊勢使王・兼久王の名跡も継ぎ、兵庫寮と使王の両方を務めた。寛永20年(1642年)9月20日には正六位上・兵庫大允に叙任され、正保4年(1647年)には名前を源兼字に変更した。明暦元年(1656年)12月15日には兵庫助に転じた。万治3年(1660年)12月24日には従五位下に叙され、兵庫頭に転じた。貞享4年(1687年)8月14日には従五位上に叙された[3]

ただし、青木庸行の『百年以来近代地下諸家伝』では河越賢兼までは中原氏を名乗っていたとされており、実際に史料上では中原朝臣と呼ばれていることから、『地下家伝』の記述には錯誤があると考えられる[4]

なお、「兼字王」の作名は小野隆房や小野職行も名乗っている[5]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 赤坂恒明「伊勢奉幣使王兼字王考[1]
  2. ^ 赤坂恒明「伊勢奉幣使王兼字王考[2]
  3. ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[3]』(日本古典全集刊行会、1937年)
  4. ^ 赤坂恒明「伊勢奉幣使王兼字王考[4]
  5. ^ 赤坂恒明「伊勢奉幣使王兼字王考[5]



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