河越兼久とは? わかりやすく解説

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河越兼久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 03:28 UTC 版)

 
河越兼久
時代 江戸時代
生誕 寛永5年(1628年)6月3日
死没 元禄16年(1703年)6月8日
別名 兼久王、真継久忠[1]
官位 従六位下・伊勢使王
主君 後水尾天皇明正天皇後光明天皇
氏族 中原朝臣平田家庶流河越氏
広澄流清原朝臣
王氏
源氏
父母 父:河越重忠(兼任王)、母:平田職広
養父:真継康利
兄弟 兼久賢在賢充
真継康利女
真継玄弘、平田職俊室
養子:兼字
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河越 兼久(かわごえ かねひさ、1628年6月3日 - 1703年6月8日)は江戸時代地下官人有職家

伊勢使王・兼任王の子で右京進・真継康利の養嗣子官位従六位下。史料によっては兼久王真継久忠とも記される。

概要

実父は伊勢使王を務めた河越重忠(兼任王)。後に右京進・真継康利の養嗣子となった[2]

寛永6年(1629年)9月10日に1歳で従六位下に叙され[3]、同月16日に伊勢神宮奉幣の使王となっていることが『孝亮宿禰日記』や『弘誓院記』寛永六年九月十六日戊戌条に見える。

『孝亮宿禰記』寛永7年9月5日条によると、翌年(1630年)9月5日には明正天皇即位による奉幣の使王となっている。

『諸願届録』所収「使王参向并語合之例書」によると、寛永20年(1643年)10月18日の後光明天皇即位による奉幣の使王となっている[4]

元禄16年(1703年)6月8日に78歳で死去した[5]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 赤坂恒明「伊勢奉幣使王兼字王考[1]
  2. ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[2]』(日本古典全集刊行会、1937年)
  3. ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[3]』(日本古典全集刊行会、1937年)
  4. ^ 嶋津宣史「國學院大學図書館所蔵河越家記録『諸願届録』(翻刻・紹介)」(『國學院大學図書館紀要』第七号、1995年)
  5. ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[4]』(日本古典全集刊行会、1937年)



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