武蔵国分寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 16:03 UTC 版)
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1973年(昭和48年)、寺域と推定される地域内に国分寺市立第四中学校を建設する計画が発表され、岩永蓮代を中心として、これに反対する遺跡保存運動が展開された。これを受けて国分寺市は遺跡調査会を設置し、東京都と文化庁の協力を得ながら寺域の発掘調査を進めることになる。なお岩永は田中智學の実娘で、研究者ではなかったが日本全国の国分寺・国分尼寺の調査保存に大きな貢献をした人物として知られている。
2001年(平成13年)には、史跡指定地に隣接して高層マンションが建設され、地元住民との間で訴訟が勃発したが、2005年(平成17年)に両者の和解による決着をみた[3]。 現在のところ国分尼寺跡が歴史公園として整備を終えているが、僧寺地区も今後順次整備を行う予定である。現在の予定では2011年(平成23年)度までに中門、金堂、講堂の基壇を整備し、2014年(平成26年)度までに参道と南門跡を整備、2018年(平成30年)度までに中門と伽藍中枢部を囲む築地塀、鐘楼の復元、2022年(令和4年)度までに塔地区の整備、2023年(令和5年)度までに崖線地区の整備とされている[1]。
国分寺市は1993年(平成5年)に、武蔵国分寺・国分尼寺跡から出土した史料を展示保存する郷土博物館の建設構想を策定したが、国分寺市立第四中学校の体育館内に資料室、旧本多邸の湧水園内に武蔵国分寺跡資料館が置かれているのみである。郷土博物館については、具体的な計画が進んでいない。
文化財
出土品等、その他の文化財については「武蔵国分寺」の文化財節を参照。
国の史跡
- 武蔵国分寺跡(附 東山道武蔵路跡) - 大正11年指定。
現地情報
所在地
- 武蔵国分寺跡:東京都国分寺市西元町2丁目(北緯35度41分32.74秒 東経139度28分18.52秒 / 北緯35.6924278度 東経139.4718111度座標: 北緯35度41分32.74秒 東経139度28分18.52秒 / 北緯35.6924278度 東経139.4718111度)
- 武蔵国分尼寺跡:東京都国分寺市西元町4丁目(北緯35度41分23.41秒 東経139度28分4.09秒 / 北緯35.6898361度 東経139.4678028度)
- 国分寺参道口:東京都府中市栄町3丁目(北緯35度41分15.32秒 東経139度28分20.23秒 / 北緯35.6875889度 東経139.4722861度)
交通アクセス
- 武蔵国分寺跡まで
- 武蔵国分尼寺跡まで
周辺
- 武蔵国分寺 - 現在の国分寺(北緯35度41分37.51秒 東経139度28分18.85秒 / 北緯35.6937528度 東経139.4719028度)。
- 武蔵国分寺跡資料館 - 現国分寺に隣接。
- 東山道武蔵路跡
- ^ a b 武蔵国分寺跡【国指定史跡】|国分寺市
- ^ 国分寺市教育委員会ふるさと文化財課「」『見学ガイド 武蔵国分寺のはなし』国分寺市教育委員会、(1989年)、52頁。
- ^ 国分寺・名水と歴史景観を守る訴訟
固有名詞の分類
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