樺太の競馬 大泊競馬場

樺太の競馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/29 01:26 UTC 版)

大泊競馬場

樺太南部の港町・大泊では1906年(明治39年)には、山本榮助によって小規模な競馬場が作られたという[3]。大泊では亞庭(あにわ)神社の祭礼の余興として競馬は行われ[39]1911年(明治44年)には大泊市街北側、神楽丘の北側山腹に一周370間(約670メートル)の競馬場が作られた[40]。しかし神楽丘の競馬場は狭く傾斜がきついので、1913年(大正2年)大泊東側の大泊川沿岸に87500坪の土地を確保して一周600間(約1090メートル)の競馬場が設けられた[41][† 5]。1931年(昭和6年)の大泊では第23回競馬が行われ、8月11日から3日間。特等入場券(馬券5枚付き)が10円、一等入場券(馬券1枚付き)2円50銭、2等入場券(馬券はつかない)が50銭で売られている[39]。1931年の大泊競馬では売り上げが42000円(競馬会の収入は15%)に加えて雑収入があるので賞金4000円を出しても今回は利益が出たという。1931年(昭和6年)の大泊競馬では、8月の競馬が盛況だったので9月5日から秋競馬も開催されている(大泊は黒字だが、他の競馬場はこの年の世界恐慌による不況で赤字だったり開催を中止したりしている)[42]

真岡競馬場

樺太西海岸の主要な町の一つ、真岡町では、1912年(明治45年)7月14日に真岡神社の祭礼の余興として競馬が行われ、新設された馬場は1周が半マイル(800メートル)で観客7000人を集めたという[† 6]。馬は真岡だけでなく大泊や豊原からも参加している。[43]

馬券を発売していないころの真岡の競馬の収入は入場料、樺太庁補助金、出走料などと当日に競馬場内で営業した中茶屋(露店)の地代などで賄われていた[44]

真岡の競馬は恒例となり[45]1929年(昭和4年)の真岡競馬では2日間で27レースが行われている[46]。真岡競馬場は昭和5年には一周1000メートルに拡張されている[47]

その他の競馬場

樺太の競馬がもっとも盛んだった1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)ごろには、後に公認競馬場になった8か所の競馬場のほかに、本斗町落合町でも小規模な競馬場がつくられ、その他の町や小さな村、部落でも馬券を発売して競馬が行われていた。野田郡野田町、本斗郡内幌村、真岡郡清水村、敷香郡内路村、敷香郡泊岸村新問、泊居郡久春内村、豊栄郡豊北村小沼、元泊郡元泊村、豊原町唐松部落、豊原町並川部落などで競馬が行われていたことが新聞報道で確認できる。[48]

樺太競馬規則が施行された1932年(昭和7年)以降は、馬券を発売して競馬が開催されるのは8か所の公認競馬場だけになったが、馬券発売を伴わない神社祭礼の余興としての競馬には規制がないので1932年の落合競馬場は馬券を売らず神社の祭礼競馬として開催するが不人気だったという[49]久春内村は小さい村にもかかわらず樺太では早期に競馬場が開設され樺太庁の補助金競馬場になっている[50]。久春内村の競馬場では1932年施行の公認競馬場から外れて馬券が発売できなくなっても神社祭礼競馬として継続され1933年(昭和8年)9月には第25回競馬を開催している[51]


注釈

  1. ^ 1905年から1945年にかけての南樺太の地位については、日本の植民地であるという考えと、植民地ではなく北海道と同等の日本であるとの考えがある。特殊な内地植民地とする考えや、外地性の希薄な外地であり異法地帯であるとの考えもある[1][2]樺太アイヌギリヤークなどの先住民族ロシア人は少数で住民の大半が日本人である南樺太は、朝鮮や台湾と同じには考えにくい[2]と言われるが、ここでは植民地とする。
  2. ^ 南樺太の支庁・出張所の数は年によって大きく違うが大正15年以降は支庁が7つ出張所が2つ程度[10]
  3. ^ たとえば昭和11年知取競馬は赤字続きなので中止が検討されたり[16]、真岡秋は馬場不良で中止になったり[17]、樺太庁のお膝元の豊原でも昭和15年の春競馬が赤字の為秋競馬は中止が検討されたりしている(結局は開催されている)[18]
  4. ^ 極寒の樺太では夏と冬では人口が違い、明治44年では夏の人口57000人だが冬には避寒のため内地に戻る者が多く36725人に減っている[30]
  5. ^ 新撰大泊史では1911年の神楽丘の競馬場を1.25マイルとしている[3]が、樺太日日新聞の一連の報道では370間(約670メートル)で統一されており、神楽丘の競馬場は狭いので、大泊東側の大泊川沿岸に一周600間(約1090メートル)の競馬場を作ったとあり、新撰大泊史の数字はまちがいであろう
  6. ^ 当時の真岡の人口は5000人。樺太全体でも6万人程度なので信じがたい数字だが、新聞報道ではそのように報じられている[43]

出典

  1. ^ a b 全国樺太連盟『樺太沿革行政史』1978年、594頁
  2. ^ a b c 工藤 信彦『わが内なる樺太』石風社、2008年、252-259頁
  3. ^ a b c 新撰大泊史、294頁。
  4. ^ 外地及満洲国馬事調査書、198-200頁。
  5. ^ 『樺太日日新聞』1923年8月9,16日
  6. ^ a b 外地及満洲国馬事調査書、198-199頁。
  7. ^ 『樺太日日新聞』1930年9月3日
  8. ^ a b 『樺太日日新聞』1932年7月3日
  9. ^ a b 『樺太日日新聞』1932年7月28日
  10. ^ 樺太庁施政三十年史 上巻、190頁。
  11. ^ 『樺太日日新聞』1932年7月1,3,7,10,12,21,26日
  12. ^ 『樺太日日新聞』1932年7月21日
  13. ^ 『樺太日日新聞』1933年7月6日
  14. ^ 帝國馬匹協會 編「外地法規 樺太 競馬規則」昭和9年6月改正 樺太庁令第12号改正『馬政関連法令』帝國馬匹協會、1938年、1617-1623頁
  15. ^ a b 外地及満洲国馬事調査書、201-203頁。
  16. ^ 『樺太日日新聞』1936年6月10日
  17. ^ 『樺太日日新聞』1936年8月21日
  18. ^ 『樺太日日新聞』1940年9月3日
  19. ^ 『樺太日日新聞』1936年6月14,19日、7月12,17,18,19,22日、8月11,17,28日
  20. ^ 『恵須取毎日新聞』1941年6月19日、8月17日
  21. ^ 『樺太日日新聞』1941年7月1,16,24,27日、9月4,14
  22. ^ 『樺太日日新聞』1939年7月1,2日、8月1日
  23. ^ 『樺太日日新聞』1941年6月5日
  24. ^ 全国樺太連盟『樺太沿革行政史』1978年、793頁
  25. ^ 『朝日新聞』1909年8月23日
  26. ^ a b 馬匹世界、明治44年9月号
  27. ^ a b 『樺太日日新聞』1911年8月25日
  28. ^ 『樺太日日新聞』1911年8月2,5,20日
  29. ^ 『樺太日日新聞』1911年8月25-26日
  30. ^ 樺太庁施政三十年史 上巻、88-89頁。
  31. ^ 『樺太日日新聞』1911年10月5-7日
  32. ^ 『樺太日日新聞』1923年8月16,22,25日
  33. ^ 『樺太日日新聞』1927年8月20日
  34. ^ 『樺太日日新聞』1930年6月24日
  35. ^ 『樺太日日新聞』1939年7月1,2日
  36. ^ 『樺太日日新聞』1932年6月2日
  37. ^ 『樺太日日新聞』1932年6月26日
  38. ^ 豊原町勢要覧
  39. ^ a b 『樺太日日新聞』1931年8月8日
  40. ^ 『樺太日日新聞』1911年8月10日
  41. ^ 『樺太日日新聞』1913年8月1日
  42. ^ 『樺太日日新聞』1933年9月3-10日
  43. ^ a b 『樺太日日新聞』1912年7月14日
  44. ^ 『樺太日日新聞』1923年7月18,19日
  45. ^ 『樺太日日新聞』1929年7月7日
  46. ^ 『樺太日日新聞』1929年7月11日
  47. ^ 『樺太日日新聞』1930年9月9日
  48. ^ 『樺太日日新聞』1927年7月20日、1929年7月24日、8月2,7,18,21,22,27日、1930年7月2日、9月6日、1932年6月7日、1933年7月11日、9月19日
  49. ^ 『樺太日日新聞』1932年7月26日
  50. ^ 『樺太時報』25号、1929年5月、55頁
  51. ^ 『樺太日日新聞』1933年9月19日


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