梅原末治 略歴

梅原末治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 10:17 UTC 版)

略歴

大阪府南河内郡古市村(現:羽曳野市)に生まれる[2]。1913年同志社普通学校(現:同志社中学校・高等学校)卒業[3]。1914年京都帝国大学文科大学陳列館助手。1921年朝鮮総督府古跡調査委員[要出典]。1929年、東方文化学院京都研究所(現:京都大学人文科学研究所)所員[1]、京都帝国大学文学部講師[1]。1933年6月、同助教授(考古学講座)[3]。1939年「支那青銅器時代の研究」で京都大学より文学博士の学位を取得[3]、同教授(考古学講座)[3]

1948年7月、京都大学評議員(- 同年11月)[3]、1956年8月、京都大学名誉教授[3]

人物

病弱のため大学進学は叶わなかった。日本で初めて京大に考古学教室を開いたことで知られる濱田耕作に師事し、多年にわたり日本ばかりでなく朝鮮、中国にて考古学の研究に従事し、功績を残した。型式学的研究法の確立で日本考古学に貢献した。

個性的な性格のため、多くの同年代の考古学者(末永雅雄小林行雄など多数)との確執を生んだ。 

息子の梅原郁も考古学者で、京都大学名誉教授(人文科学研究所、東洋史、宋代官僚制・司法制度研究で、2010年日本学士院賞受賞)[4]

  • 『東方学回想 Ⅵ 学問の思い出〈2〉』東方学会編、刀水書房、2000年。座談会での回想が収録
  • 『考古学京都学派』角田文衛編、雄山閣出版、増補1997年。第3部に梅原末治論

受賞歴


  1. ^ a b c d e f 有光教一『本会顧問 梅原末治博士訃』史学研究会 (京都大学文学部内)、1983年7月1日。doi:10.14989/shirin_66_591https://doi.org/10.14989/shirin_66_5912022年8月22日閲覧 
  2. ^ a b 梅原末治”. www.toyo-bunko.or.jp. 公益財団法人東洋文庫. 2022年8月22日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 詳細情報一覧/歴代総長・教授・助教授履歴検索システム-対象:1949年以前の在職者―
  4. ^ 梅原郁先生略歴・主要業績目録」『就実大学史学論集』第36巻、就実大学人文科学部総合歴史学科、2022年3月、9-22頁。 


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