松岡洋右
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逸話
満洲国と松岡
満洲事変以降よく使われたスローガンである「満蒙は日本の生命線」という標語は、1931年1月(満洲事変が始まるのはこの年9月)の第59回帝国議会で、野党政友会の議員であった松岡が、当時政権にあった濱口内閣の幣原喜重郎外務大臣による協調外交(幣原外交)を批判する演説で利用したのが最初。大ヒットして、龍角散のキャッチコピーに引用されたりもした。「咽喉は身体の生命線、咳や痰には龍角散」がそうである。
また、アメリカでの経験から貧困層の秀才をスパイに育て上げることを考え、アイヌ人の天才少年シクルシィ(和気市夫)を幼少時から援助し、5回の飛び級を経て12歳で釧路中学を卒業させ、英語以外にロシア語、ドイツ語、ユダヤ語、フランス語、イスパニア語、北京語、華南語、朝鮮語、ブリヤーク語、タガログ語を現地レベルで学ばせ密偵として各国に派遣させ、情報を収集した。
ユダヤ人と松岡
満鉄総裁時代の1938年にオトポール事件ではユダヤ人難民救援用の列車を出動させるなど積極的に動いており、ユダヤ難民を後にヒグチ・ルートと呼ばれる満鉄の特別列車で上海まで特別列車を出して5000人以上を救っている[70]。しかしこれでナチスの不興を買っているが無視している。
また、外務大臣時代の1940年(昭和15年)12月31日には、在日ユダヤ人の実業家らとの会合の中で、「人間ヒトラーとの提携が、ただちに日本で反ユダヤ政策を実施するということでは無い」と約束している。また、「これは私個人の見解では無く、日本の見解である」とまで述べており、反ユダヤ主義者ではなかった。
日米交渉の方針について
松岡と面会した竹本孫一(大政翼賛会副部長を経て情報局課長。のち民社党衆院議員)に、方針を2点語ったという[71]。
「その時、松岡さんは、アメリカ人の気質は、皿洗いした自分がよく知っている。弱気で立ち向かっては駄目だ。あくまで強い決意で断固として交渉しなければいけない。なめられたら終わりである、ということが一点。もう一つは、我輩の外交の基礎は海軍である。この優秀な海軍をバックにしてのみ対米交渉はできる。しかし刀は抜いたら終わりだ、戦争になるかもしれぬという危機感の中で、強い日本海軍を温存しながら、対米交渉をするのだ。そうすれば必ずうまくまとまる、また、そうしなければならない、ということであった。」
また、竹本が松岡三雄(松岡洋右の甥)から聞いた話によれば、自身の訪米交渉も検討していた[71]。
「(前略)恰も凱旋将軍のように国民的歓呼の中で帰国した松岡さんは、奥さんにも命令して旅行の荷物を解かないままに、そのままアメリカに直行する決意であったという。」
ソ連訪問時の逸話
スターリンとの会談でも松岡はまったく饒舌であった。松岡はスターリンの前で「我々は同じアジア人である(スターリンはソビエトの中でもアジア地域にあたるジョージア(グルジア)の出身である)」「日本は元来、共産主義的民族であるが、アメリカ文化に侵されて資本主義的になってしまった」などと次から次へとお世辞を言い、スターリンの機嫌をよくしてから外交交渉の話に移ろうとした。最初、中立条約締結に消極的だったスターリンは喋りまくる松岡をじっと見つめて「君は約束を守りそうだな」と言い、中立条約締結を決断したという。
また、瀧澤一郎は、クレムリン宮殿で開催された日ソ中立条約成立の祝賀会の座上で松岡がウォッカに酔い、お世辞を込めて「私は共産主義者だ」と語ったとされる逸話を紹介している[72]。スターリンは松岡のこうした饒舌をかなり好んだようで、既述のように、松岡の帰国の際は、異例中の異例ともいえる駅での見送り、抱擁をしている。
吉田茂との交流
松岡は吉田茂の2年先輩の外交官であり、友人関係があった。互いの骨董品について、冷やかしや皮肉を言いあうこともあったという[73]。戦後、松岡が結核で衰弱しているという話を聞いた際、吉田は少ない物資の中からミルクを送ったとされる。
注釈
出典
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- ^ 昭和16年(1941年)4月22日第20回大本営政府連絡懇談会(議題:松岡外務大臣帰朝報告、対米国交調整) - 公文書に見る日米交渉 -
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- ^ 昭和16年(1941年)5月3日 松岡外務大臣、野村大使に対し「オーラル・ステートメント」と「日米中立条約」申し入れを訓令 - 公文書に見る日米交渉
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- ^ 昭和16年(1941年)5月22日第25回大本営政府連絡懇談会(議題:蘭領インドシナ交渉、対米国交調整その後の状況、国民政府承認) - 公文書に見る日米交渉
- ^ 昭和16年(1941年)5月13日 野村大使、本国に対し、松岡外務大臣の覚書手交を見合わせるよう意見具申 - 公文書に見る日米交渉 -
- ^ 昭和16年(1941年)6月22日野村大使・ハル米国務長官会談、ハルは、オーラル・ステートメントを手交、また、5月31日案(日本時間6月1日手交)のアメリカ政府訂正案を提示- 公文書に見る日米交渉
- ^ 昭和16年(1941年)7月10日第38回大本営政府連絡会議(議題:日米国交調整、6月21日付ハル国務長官の回答に関する外務省側の意見)- 公文書に見る日米交渉
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- ^ 『よみがえる松岡洋右: 昭和史に葬られた男の真実』福井雄三,PHP研究所, 2016
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