日本橋大伝馬町 概要

日本橋大伝馬町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 14:02 UTC 版)

概要

江戸最古の町の一つであり、最大のメイン通りである日光奥州街道で賑わいを見せた表通りの町で、神田祭などの筆頭氏子町会として山車を引いたことで知られる。現在はオフィス等が連なる町並みで、べったら市などで賑わいを見せる街である。

江戸最大の繊維問屋街として名をはせるようになり、往時「木綿店」と通称された一角には、江戸時代には木綿問屋が74軒あり、その中でも6割以上が伊勢国(現在の三重県)の店が占め、かつ松坂出身の店が多くあった。また多数が戦後まで軒を並べていた。

中央区が定める正式な英語ローマ字表記は Nihonbashi-odemmacho である[4]

地理

日本橋地域の北部に位置する。東西方向に長い町域で、街の中央部を東西に横断する道路は、旧奥州街道こと大伝馬本町通りと呼ばれる。南北に縦断する通りの人形町通りと大門通りで東西に3分割されている。

世帯数と人口

2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

町丁 世帯数 人口
日本橋大伝馬町 1,012世帯 1,730人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]

番地 小学校 中学校
全域 中央区立日本橋小学校 中央区立日本橋中学校

観光

名所史跡
  • 日光奥州街道 - 大伝馬本町通りが該当。
  • 大丸百貨店 東京店の発祥地[6]
  • 蔦屋耕書堂 - 地本問屋で主人は蔦屋重三郎。1773年(安永2年)、重三郎は吉原大門の前に書店を開き、初めは吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から出版業に関わって、山に蔦の印の箱看板を出していて、蔦重〔つたじゅう〕と呼ばれていた。1783年(天明3年)に日本橋大伝馬町に移転してきた。山東京伝曲亭馬琴十返舎一九などの作家や絵師を抱えていた。浮世絵を出版し、喜多川歌麿東洲斎写楽を見出した。1802年(享和2年)に出版された葛飾北斎の『絵本東都遊』に店先の様子が描かれている。

交通

道路
  • 大伝馬本町通り
  • 人形町通り
  • 大門通り

  1. ^ a b 町丁目別世帯数男女別人口”. 中央区 (2019年9月3日). 2019年9月23日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月31日閲覧。
  4. ^ 中央区設置住居表示板
  5. ^ 区立学校一覧”. 中央区 (2017年8月17日). 2019年8月30日閲覧。
  6. ^ 大丸の歴史


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