山田高塚古墳 概要

山田高塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 22:23 UTC 版)

概要

大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、金剛山地から伸びる台地状丘陵の西端部に築造された古墳である[1][2]江戸時代の修陵で大規模な改変が加えられているほか[1][3]、現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるが、これまでに宮内庁書陵部による調査等が実施されている[2]

墳丘は3段築成[3]。1段目は正方形、3段目は長方形であるが、1段目形状には後世の改変可能性が指摘される[3]。墳丘外表では貼石が認められるが、埴輪は無いとされる[3]。埋葬施設は明らかでないが、東西に長い墳丘の特徴から、横穴式石室2基が東西に並び、いずれも南方に開口したと推定される[2]。古書ではいずれかの石室内部における石棺2基の存在が記述されている[2][3]

被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第33代推古天皇628年崩御)および子の竹田皇子(崩御年不詳)の合葬陵墓に治定されている[4]。磯長谷では、長方形墳または双方墳の形式として二子塚古墳(太子町山田)や葉室塚古墳(太子町葉室)が知られ、石室2基の点や墳丘比率の点で共通性が指摘される[5]。また磯長谷では推古天皇陵のほか敏達用明孝徳天皇陵と聖徳太子墓が伝わっており、これらは「梅鉢御陵」と総称される。

遺跡歴

構造

山田高塚古墳の航空写真
(1985年度)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

3段築成の墳丘のうち、1段目は東西59メートル・南北55メートルとほぼ正方形であるが、3段目は東西34メートル・南北25メートルと東西に長い長方形であり、かつ3段目は相当な急斜面をなす[3]。墳丘全体の高さは11メートルを測る[3]。特に1段目のプランは春日向山古墳(用明天皇陵)と同一になるため、江戸時代の修陵の際に春日向山古墳に則って改変されたと見られ、元は1段目も東西に長い長方形であった可能性が指摘される[3]

墳丘南側には前庭部状の平坦地があり、それを含めた陵域全体は東西75メートル・南北72メートルを測る[3]。また墳丘東側・前面には空堀(幅8-9メートル)が認められるが、1979年(昭和54年)の調査によればその堤は後世に水田上に造作されたものとされる[4]


  1. ^ a b 『扶桑略記』康平3年(1060)6月2日条。
  2. ^ 『日本書紀』推古天皇36年(628年)3月癸丑(7日)条。
  3. ^ 『日本書紀』推古天皇36年(628年)9月壬辰(24日)条。
  4. ^ 『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。
  1. ^ a b c d e 高松古墳(平凡社) 1986.
  2. ^ a b c d e f g 書陵部紀要 第42号 1991.
  3. ^ a b c d e f g h i j 王陵の谷・磯長谷古墳群 1994, pp. 16–17.
  4. ^ a b c d e f g h i j 磯長山田陵(国史).
  5. ^ a b c 王陵の谷・磯長谷古墳群 1994, pp. 33–41.
  6. ^ "推古天皇陵を立ち入り調査/研究者ら石室材を確認"(四国新聞社、2012年2月23日記事)。
  7. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  8. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)11-12コマ。
  9. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 407。





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