女狭穂塚古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/05 12:05 UTC 版)
遺跡歴
- 1895年(明治28年)、宮内省(現・宮内庁)により陵墓参考地に治定[8]。
- 1926年(大正15年)、測量調査(1929年(昭和4年)製図)[4]。
- 1997年度(平成9年度)、立ち入り測量調査(宮崎県教育委員会)[4]。
- 2004-2006年度(平成16-18年度)、立ち入り地中レーダー探査(宮崎県教育委員会)[5]。
- 2009-2010年度(平成21-22年度)、立ち入り地中レーダー探査(宮崎県教育委員会)[6]。
墳丘
墳丘の規模は次の通り(1997年度(平成9年度)の測量調査による現況値)[3]。
- 墳丘長:176.3メートル
- 後円部 - 3段築成。
- 直径:96.1メートル
- 高さ:14.6メートル
- くびれ部
- 幅:71.1メートル
- 前方部 - 3段築成。
- 幅:109.5メートル
- 高さ:12.8メートル
- 内壕
- 幅:14-18メートル
- 周堤帯
- 幅:15-18メートル
- 外壕
男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳の築造を巡っては、近接して立地することもあり、これまでに次の諸説が挙げられていた[5]。
- 男狭穂塚が先行古墳で、女狭穂塚の築造に際して男狭穂塚前方部を破壊したとする説。
- 女狭穂塚が先行古墳で、男狭穂塚の築造途中に女狭穂塚との重複可能性により男狭穂塚前方部の築造を停止したとする説。
- 男狭穂塚・女狭穂塚とも完結しており、重複はないとする説。
以上に関して宮崎県教育委員会による立ち入り地中レーダー探査(墳丘部除く)の結果によれば、男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳には重複関係はなかったとされる[5]。
男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳が台地中央部に築造されたのは、西から伸びる小丘陵先端部を利用することによる土量確保のためと見られ、限られた選地の中で両古墳の築造が最大限かつ等墳丘長で企画された点が注目される[6]。その176メートルという墳丘長は、九州地方全体でも後続の唐仁大塚古墳(鹿児島県肝属郡東串良町、154メートル)を大きく引き離す規模になる[注 1]。
なお周堀のうち外壕は西-南側のみで一周しないため、元の地形から区画する目的であったとされる[3]。
出土品
女狭穂塚古墳からの出土品としては、円筒埴輪・形象埴輪(家形・鶏形・盾形・冑形・肩甲形・短甲形・草摺形埴輪)がある[3]。円筒埴輪は器壁が厚い、突帯端面が重厚、淡褐色(ベージュ色)、黒斑を有するという特徴を示し、野焼き焼成と見られる[3]。男狭穂塚古墳の出土埴輪とは時期的には非常に近接するが、そちらは異なる製作技法(窖窯焼成)である点が注目される[3]。西都原古墳群の丸山支群では、170号墳出土埴輪は男狭穂塚系列、169号墳・171号墳出土埴輪は女狭穂塚系列に位置づけられるが、男狭穂塚系列は非畿内的埴輪、女狭穂塚系列は畿内的埴輪とされる[3]。
なお、西都原古墳群では丸山支群のほかには101号墳・寺原古墳・212号墳で埴輪の出土が知られ、いずれも女狭穂塚系列に属する[3]。一方、男狭穂塚系列の埴輪は周辺の大型前方後円墳で採用が知られる[3]。
- ^ a b 東憲章 2017, pp. 15–28.
- ^ 西都原古墳群(平凡社) 1997.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 東憲章 2017, pp. 29–62.
- ^ a b c 男狭穂塚女狭穂塚陵墓参考地測量報告書 1999.
- ^ a b c d 男狭穂塚女狭穂塚陵墓参考地 地中探査事業報告書 2007.
- ^ a b c 地中探査・地下マップ制作事業報告書 (1) 2012.
- ^ 西都原古墳群(国指定史跡).
- ^ 東憲章 2017, pp. 4–14.
- ^ 外池昇 『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』 吉川弘文館、2005年、pp. 49-52。
- ^ “日本の史跡101選 - No.26 西都原古墳群”. 日本経済新聞広告局 (2008年). 2018年8月30日閲覧。
- ^ “宮崎県季刊誌jaja Vol.8 春号『特集 西都原幻想紀行「ヤマトとハヤト」』”. 宮崎県秘書広報課. 2018年8月30日閲覧。
- ^ 男狭穂塚・女狭穂塚(西都市観光協会)。
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