太陰太陽暦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 05:08 UTC 版)
日本の太陰太陽暦
日本では飛鳥時代の元嘉暦以来、中国王朝が制定した暦(中国暦、日本では漢暦とも呼称)をそのまま導入し和暦として使用した。しかし貞観4年(862年)に導入された宣明暦への改暦以後、およそ800年あまりにもわたって宣明暦を使用し続けた結果、江戸時代のはじめには太陽の運行予測に約2日のずれが生じていた。宣命暦の暦法による太陽暦の一年は実際よりもごくわずかに長く、そのごくわずかな違いが800年余りの時を経て積み重なったことにより、約2日の遅れとなっていたのである[5]。
そこで貞享元年(1685年)10月、渋川春海の意見によりようやく日本独自の太陰太陽暦(ベースは中国の授時暦)である貞享暦への改暦が実現した(頒暦はその翌年)。以来、貞享暦(貞享2年 - 宝暦4年)、宝暦暦(宝暦5年 - 寛政10年)、寛政暦(寛政10年 - 天保14年)、天保暦(天保15年〈弘化元年〉 - 明治5年)と独自の太陰太陽暦の使用が続けられてきた(日本で過去に使用された暦法については後節「日本で使用された暦」も参照)。しかし明治5年11月、政府より太陰太陽暦から太陽暦に切替える旨の太政官布告が発せられ、同年12月2日(天保暦の日付)の翌日をグレゴリオ暦に基づき明治6年(1873年)1月1日としたことで、その歴史に幕を閉じた。
なお1873年以降、天保暦の暦法による太陰太陽暦は「旧暦」と呼ばれ、現在でも神宮暦やカレンダーに記されることがあるが、これらは何ら公的な裏付けのない暦法であることに注意すべきである[6]。
- ^ 『西域物語』(本多利明著、寛政10年〈1798年〉序)には「欧羅巴暦を太陽暦といふ、日本暦を太陰暦といふ也」とある[1]。明治5年の太政官布告第三百三十七号にも、「今般太陰暦ヲ廃シ、太陽暦御頒行相成候ニ付…」とあり、この「太陰暦」は太陰太陽暦(天保暦)のことを指す。『日本国語大辞典』8(小学館)では「太陰太陽暦」の項は説明だけで語例はなく、「太陰暦」と「太陽暦」の項は『西洋事情』(福沢諭吉著)や上記の太政官布告第三百三十七号などを引き、いずれも太陰太陽暦である天保暦を「太陰暦」と呼ぶ例が取り上げられている。
- ^ 『世界大百科事典』16(平凡社、2007年)、「太陰太陽暦」(内田正男)の項。
- ^ (中国語) 尚書 : 虞書 : 堯典. 中國哲學書電子化計劃
- ^ 『暦の歴史』(『知の再発見双書』96)84 - 85頁。
- ^ 『暦』(『日本史小百科』)78 - 79頁。
- ^ 『現在、日本で「公式な」太陰太陽暦の計算というものはおこなわれていません。そのため国立天文台でも、「今日は旧暦の何日か?」などの、太陰太陽暦に関するお問い合わせには、はっきりとしたお答えができないことがありますことをご理解ください』(国立天文台、質問3-4「旧暦」ってなに? より)。グレゴリオ暦の項も参照。
- ^ 実際には地球が太陽の周りを廻っているので太陽や黄道自体が移動するわけではなく、太陽や黄道の位置が移り変わるというのは「あくまでも地球上の、ひとつの場所から太陽を見た場合の見せかけの動き」ということである。
- ^ 『暦』(『日本史小百科』)95頁。
- ^ 明治以前の慣習として、夜明け前までを前日としていたので12月14日のこととされており、そこからグレゴリオ暦で「1月30日」とする例も見られるが、現在の時間概念から見れば厳密には1月31日のことである。
- ^ 季節はずれの赤穂浪士の討ち入り
- ^ 高島俊男『お言葉ですが…(9) 芭蕉のガールフレンド』(『文春文庫』、2008年6月) ※「佐々成政の峠越え」(p.202-) ISBN 978-4-16-759810-5
太陰太陽暦と同じ種類の言葉
太陽暦に関連する言葉 | 太陽暦(たいようれき) 旧太陽暦(きゅうたいようれき) 太陰太陽暦(たいいんたいようれき) |
暦に関連する言葉 | 陽暦(ようれき) 剥がし暦(はがしごよみ) 太陰太陽暦(たいいんたいようれき) 大宮暦(おおみやごよみ) 日本長暦 |
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