京阪1800系電車 (初代)
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運用
特急時代
1953年7月にまず先行試作車に当たる1800型2両(1801・1802)が落成、主に特急に充当され、釣り掛け式の1700系と区別なく運用され、1700系との混結も実施された。
この2両の使用実績を受けて、翌1954年より量産が開始された。量産車は1700系と同様、連結面側に広幅貫通路を持つ1800型制御電動車と1880型制御車で組成されるMc-Tcによる2両編成を基本とし、これに運転台側と同一の狭幅貫通路を連結面側に備える増結用1800型制御電動車1両を追加したMc-Tc+Mcによる3両編成を1セットとして製造され、同一形式の制御電動車の中に2種類の構造が混在することとなった[注 15]。
編成の組み替えに制約のある広幅貫通路は、こうした機動的運用を好んで行っていた京阪の場合には制約となることが多く、このため続く1810系以降の系列では、1801-1802の間に挿入するための中間付随車(1887)に広幅貫通路が採用されたのを唯一の例外として、全車とも狭幅貫通路仕様で製造されている。
なお、本系列は1700系だけではなく、増備車である1810系[注 16]とも連結して運用されている。
車内テレビ放送
後に京阪特急の代名詞となったテレビカーは、車内サービス向上策の一環として、沿線にある松下電器産業の協力を得て1801-1802で実験運用開始された。
これが好調であったことから、1882・1883に白黒テレビを取り付け、1954年9月3日より日本放送協会(NHK)総合テレビの番組放送を開始した。乗客からは「走る街頭テレビ」と呼ばれた。
一般車への格下げ
地下線で建設された天満橋・淀屋橋間の開業(1963年)に備え、1961年から転落防止対策として側窓下部へ保護棒が設置された。1963年には1900系新造車が登場したが、車体長の短さや空気ばね台車を装備していなかったことなどにより、本系列は1700系とともに一般車に格下げされた。まず2扉・特急色のままロングシート化[注 17]とテレビ撤去が行なわれ、1966年には3扉・一般色化された。増設扉は窓割の関係から車体中央部の側窓3枚を潰して設置され、1700系同様戸袋窓のない両開き扉として窓配置はd1(1)D3D"3D(1)1(d:乗務員扉、D:客用扉(片開)、D":客用扉(両開)、(1):戸袋窓、数字:側窓数)となった。3扉化の際に1881 - 1883は運転台を撤去して1851 - 1853に改番している。また窓のアルミサッシ化も正面窓から徐々に進められた。なお、一般車格下げ後は交野線・宇治線でも定期運用されるようになり、時には近鉄京都線直通運用に入ることもあった。
なお、1810系のうち空気ばね台車を装備していなかった2両の中間車1884・1887も1800系に編入され、1963年に2扉・特急色のままロングシート化とテレビ撤去され、1887は妻扉の狭幅化が行なわれた。1966年には3扉・一般色化が行なわれたが、これらは車体長が18 mで1 m長く、増設扉も片開きであった[注 18]。この3扉化の際に旧1985・1986の電気機器を用いて中間電動車化され、1871・1872に改番されたが、1967年には1881・1882(2代)に再改番されている。
以後は主に1700系と連結して編成を組み、区間急行や普通を中心に充当されていたが、1981年に1800系(2代)に機器提供して、同年に全車廃車された。なお、1800系(2代)は600系の車籍を継承したため、本系列はこの時に全車車籍抹消となっている。
除籍後、1801・02は数年間は寝屋川車庫にて車体を保管し、復元保存も検討されていたが、結局保存計画は中止となり、2両とも解体されている。また1804の車体は電動貨車(救援車)101に、1808の車体が貨車(救援車)111に使用されたが、両車共2000年12月末で廃車解体された。
- ^ 1950年代から1960年代まで京阪の特急車は編成が一定しておらず、増結車を深草・守口の両車庫で待機させておき、多客時に必要に応じ逐次増結していた。具体的には、両車庫から最寄りの三条・天満橋の両ターミナルに増結車を回送で送り込んで、あらかじめ特急の到着を待つ乗客を乗せておき、やがて到着した基本編成へ増結する、といった弾力的な車両運用が行われたのである。しかし、本系列の増結車は片運転台車であったため、1両のみの増解結を行う際には運用上の制約が少なからず存在した。もっとも、本系列が特急に使用された時期には、乗客増で4両編成が主体となっていた特急の5両編成化のために固定的に運用されるケースが多く、その実績により車体が1 m延長された後継車種である1810・1900系では、1880型制御車が運転台のない1880・1950型付随車に設計変更されてMc-T-Mcの3両編成が基本となり、さらに増結用電動車を全て両運転台装備とすることで運用の自由度向上が図られている。なお、京阪特急は1900系を置き換えた3000系以降1両単位での機動的な編成の増減を止めたが、それでも三条 - 七条駅間の地下化に伴うダイヤ改正までは深夜の閑散時に編成を二分し輸送需要の増減に応じた運用を実施していた。
- ^ 後述するように、増結用1800形については連結面部分の構造が変更されている。
- ^ 化粧板にサーモンピンク色を採用した事例は、日本の鉄道車両では極めて少なく、他事業者では本系列の落成直後に落成した営団300・400・500・900形程度しかなかった。
- ^ 本系列ではこの内装は一般車に格下げられた後も変更されずに維持され、特に夜間に異彩を放った。
- ^ また、この編成のみ前面貫通路窓が製造当初より黒色Hゴム支持であった。他車はロングシート化までは直接支持、ロングシート化後に黒色Hゴム支持とされている。
- ^ これにより電動車の自重について、1700形の41 tに対し33 tと8 tもの軽量化に成功している。ただし、柱や梁が全荷重を負担し側板には荷重負担がない、従来の構造を継承しており、2000系以降で導入された準張殻構造ではない。また、自重軽減には高定格回転数・軽量構造の新型モーターや、鋼板溶接構造の軽量台車を採用したことによる部分も大きい。
- ^ 2両固定編成であったため1両単位での増結用として接客設備の劣る1300形を起用せざるを得ず、同車に割り当てられた乗客から不評が寄せられた。
- ^ 1700系では車掌台側標識灯を幕板に、運転台側標識灯を腰板に取り付けていたが、本系列では双方とも腰板に設置した。なお、1700系についても後年本系列と同仕様に変更されている。
- ^ 端子電圧300 V時、1時間定格出力75 kW、定格電流285 A、定格回転数2,000 rpm、最高許容回転数4,500 rpm。
- ^ 端子電圧300 V時、1時間定格出力75 kW、定格電流280 A、定格回転数1,500 rpm、最高許容回転数4,500 rpm。
- ^ 同時期に住友が担当した営団地下鉄300形用WNドライブは、ウェスティングハウス社製ニューヨーク市地下鉄R11形用装置を正式なライセンスの下で複製したが、京阪向けはそれとは別ルートで得た技術情報を元に独自に開発を進めていたものを採用したとされる。
- ^ これは初のカルダン駆動車ゆえに、両者の比較、およびいずれか一方が故障しても列車運行が続けられるようにする目的であったと考えられる。
- ^ ただし日本初のシンドラー式台車を装着していた1803については、ギアカップリングを用いていた継手をたわみ板によるものに変更しており、日本の鉄道車両におけるたわみ板継手によるカルダンドライブの最初の実用例となっている。もっとも、続く1805以降ではギアカップリングに逆戻りしており、たわみ板継手の本格採用はシンドラー式台車ともども増備車である1810系で実現している。
- ^ 1800形はAMAR-D、1880形はACARを搭載。
- ^ これは、当時の京阪では朝夕ラッシュ時や季節ごとの輸送波動の調節を、1両単位の増解結で対応することが好まれたために起きた現象である。
- ^ 1810系とは1900系への編入以前の形式名である。ただし、本系列は1900系の就役開始後もしばらくは臨時特急用の予備車として特急色が維持されており、1900系との混結が可能なよう、この間の定期検査時に制御回路電圧を100 Vへ変更、さらに過負荷表示灯および空気バネ知ラセ灯など1900系固有の装備に対応する警告灯の追加設置や、スイッチ類の統一など運転台周辺の仕様変更が実施されたが、1800系と1900系との混結は試運転を含めて一度も実施されなかった。
- ^ 座席は格下げ後もえんじ色のモケットが使用されていた。
- ^ この改造により窓配置は2(1)D9(1)D3(D:客用扉(片開)、(1):戸袋窓)から2(1)D3(1)D3(1)D3に変更された。
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