交響曲第3番 (ブルックナー)
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作曲の経緯
1872年に着手し、1873年に初稿(第1稿または1873年稿)が完成した。
初稿執筆の最中の1873年、ブルックナーはリヒャルト・ワーグナーに面会し、この第3交響曲の初稿(終楽章が未完成の状態の草稿)と、前作交響曲第2番の両方の総譜を見せ、どちらかを献呈したいと申し出た。ワーグナーは第3交響曲の方に興味を示し、献呈を受け入れた。
この初稿により1875年、ヘルベック指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演が計画されたが、リハーサルでオーケストラが「演奏不可能」と判断し、初演は見送られた。
1876年(交響曲第5番作曲の時期)、ブルックナーはこの曲の大幅改訂を試み、1877年に完成した(第2稿、または1877年稿)。
同じ1877年、ブルックナー自身がウィーン・フィルを指揮して、この曲は初演された。もっともこの初演は、オーケストラ奏者も聴衆もこの曲に理解を示さず、ブルックナーが指揮に不慣れであったことも手伝い、演奏会終了時にほとんど客が残っていなかったという逸話を残している。とはいえ、残っていた数少ない客の中には、曲の初演準備のために2台ピアノへの編曲作業を手伝った、若き日のグスタフ・マーラーもあった。この初演の失敗により、ブルックナーはその後約1年間、作曲活動から遠ざかった。
1878年、この曲が出版されることとなり、それにあわせて一部修正を行った。
1888年、再度この曲は大幅改訂され、1889年に完成した(第3稿、または1889年稿)。交響曲第8番の改訂と同じ時期である。この稿は1890年に、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによって初演された。この第3稿での初演は成功を収めた。
日本初演は1962年5月23日ハンス・カウフマン指揮の京都市交響楽団により、京都会館にて。
曲の愛称
ワーグナーに献呈されたことから「ワーグナー」の愛称も付けられている。この曲の初稿をワーグナーに献呈する際、ブルックナーは表紙に「ワーグナー」の文字を華やかな金泥色で記すよう指示した。印刷された表紙は、ワーグナーの文字の方がブルックナーよりもずっと大きい[1][2]。
ワーグナーの対応
1873年8月31日、ブルックナーはこの作品と旧作の第2交響曲の楽譜を持ってバイロイトのワーグナー宅を訪問している。風采の上がらないブルックナーを見て、ワーグナー夫人のコジマは、物乞いと勘違いしたという。ワーグナーはバイロイト祝祭劇場建設のプロジェクトに忙しく、献呈に興味を示さずほとんど門前払いの形でブルックナーを帰らせたが、後で楽譜を見て感動し、劇場建築現場にたたずんでいたブルックナーを連れ戻して抱きしめ、「私はベートーヴェンに到達する者をただ一人知っている。ブルックナー君だよ。」と称賛した。
献呈を快諾された晩、ワーグナー夫妻とブルックナーは2時間半程歓談したという記録が遺されている。その際、ワーグナーがしきりにビールを勧めたため、ブルックナーはすっかり酔ってしまい、翌朝ブルックナーは、ワーグナーがどちらの交響曲の献呈を受け入れてくれたのかすっかり忘れていた。同席していた彫刻家キースに尋ねるとニ短調の交響曲についての話でトランペットが話題になっていたという。そこで、念のためにとホテルに備付けられた便箋に、「トランペットで主題が始まるニ短調交響曲(の方でしょうか)。A・ブルックナー Symfonie in D moll, wo die Trompette das Thema beginnt. A. Bruckner mp.」と書いてワーグナーに送ったところ、同じ紙に書き添えて「そうです! そうです! 敬具。リヒャルト・ワーグナー Ja! Ja! Herzlichen Gruss! Richard Wagner」との返事があった[3]。
この時ブルックナーが使用した便箋によると、宿泊していたホテルは「金の碇 Zum goldenen Anker Bayreuth」というもので、2020年現在も4つ星ホテルとして営業している。ワーグナーの家であるヴァーンフリート荘とも程近く、逆にバイロイト祝祭劇場へは少し距離がある。
- 1 交響曲第3番 (ブルックナー)とは
- 2 交響曲第3番 (ブルックナー)の概要
- 3 自筆譜の行方
- 4 演奏時間
- 5 外部リンク
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