中嶋砦 沿革

中嶋砦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 04:50 UTC 版)

沿革

尾張で勢力を伸ばしていた織田信秀の死後、子の信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城山口教継駿河今川義元に寝返り、義元は大高城を手中にした。そこで信長は、大高城に対して丹下砦善照寺砦・中嶋砦を築き、さらに大高城と鳴海城の間を遮断するために、丸根砦鷲津砦を築いた。中嶋砦は守将として梶川高秀が置かれた[2]

永禄3年5月19日西暦1560年6月12日)、今川義元が尾張に侵攻して来ると、信長は清洲城を出陣するが、鷲津・丸根両砦は落とされてしまった。信長はまず丹下砦へ入り、次に善照寺砦へ移った。そのとき義元は「おけはざま山」で休息しており、信長がさらに中嶋砦に移ろうとしたところ、脇は深田で一騎ずつしか通れない道で敵から丸見えなため家老衆が止めたが、信長は振り切って中嶋砦に移った。その時点で信長軍は2千足らずだったが、またしても家老衆が止めるのを、敵方は戦闘で疲れていると判断した信長は義元本隊に突撃し、ついに義元を敗死させた[3]桶狭間の戦い)。その結果、今川軍は尾張から撤退し、中嶋砦も役割を終えた。

現況

扇川手越川の合流地点に位置し、一帯は宅地化されていて、個人宅の庭に1927年(昭和2年)に鳴海町により建立された「中島城址」の石碑がある。

交通

名鉄鳴海駅より南東へ徒歩約5分。

外部リンク


  1. ^ 「鳴海周辺のみどころ一覧4」名古屋市公式HP
  2. ^ 太田牛一信長公記』 巻首 「鳴海の城へ御取出の事」
  3. ^ 『信長公記』 巻首 「今川義元討死の事」


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