上海列車事故 日本からの修学旅行生の事故

上海列車事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/11 07:17 UTC 版)

日本からの修学旅行生の事故

事故の発生

1988年3月21日夜、高知学芸高等学校1年生179名および引率の教師と同行する医師、そして大手旅行会社、日本交通公社(現:JTB)の添乗員ら14名の193名が、高知港を夜行フェリーで出発した。一行は、翌朝大阪南港に到着後、空路大阪国際空港から上海虹橋国際空港に向かい中国に入国した[注釈 4]

一行は、当日中に上海駅から京滬線の急行で蘇州に向かい、翌日は同地を観光した。24日の13時20分(以下現地時間日本時間は1時間早い)に蘇州駅を出発し杭州駅行きの311急行旅客列車に乗車し事故に巻き込まれた。18時52分に到着する予定だった。

補償問題

中国側との事故に対する補償交渉は翌年1989年3月に妥結した。しかし、中国側との補償交渉は日本国の外務省が『基本的には中国と遺族との間の問題」として直接支援しなかったことや、当時の政治的問題や経済格差等のため難航した。また旅行会社からの補償は、同校の修学旅行はいわゆるツアー(企画旅行)ではなく、学校側の提案による手配旅行であり、法律上の補償義務はないとして別途かけていた海外旅行保険の給付しか行わなかった[注釈 5]。また学校側と遺族との軋轢も後々まで残った。

当時の日中友好ムードが障壁になったとの指摘もある。当初から物価水準が異なるために賠償金が低いことが指摘されていた。中国側は、中国人遺族[注釈 6]との賠償金の差が中国政府の批判へと発展することを懸念した。日本側との補償交渉の席で、中国側は日中友好と云う言葉を何度もしきりに使いながら、精一杯の努力をしたとして決着に持ち込んだという。

1988年8月に訪中した竹下登首相(当時)に対し、中国の李鵬首相が「国情の違いを理解してほしい」と、日本並みの補償はできないとする基本的立場を伝えた。日本側が民事問題としている補償問題に対して、中国政府は介入する態度を示していた。このような対応に対し、当時の運輸大臣だった石原慎太郎は「被災者側弁護士によると中国は中国の示した条件で打ち切るといっているらしい」「これでは日本における中国の印象も悪くなる」と指摘した。東京にあった旧満州国の不動産売却によって中国政府が売却益を上げていることを引き合いに出し、そこから補償金にまわすべきだと述べた[5]

このような事情もあったことで、補償額の日中間の開きは大きく、第一回に東京で行われた交渉では、日本側は5000万円前後を示したが、中国側は一律31,500人民元(当時のレートで約110万円)であったという[6]。第二回に上海で行われた交渉では、日本側も2100万円に引き下げたが、それに対する回答は220万円であった[7]。この金額は1988年1月に重慶郊外で墜落した中国西南航空機事故[注釈 7]で犠牲になった日本人技術者3人に対して提示された金額と同じ[注釈 8]であった。そのため中国側は、双方の事故補償とも同じ事故水準で解決しようとしていた。結局、中国側とは1989年2月26日に補償条件を受諾したが、その金額は未公表であるが、400~550万円の間、おそらくその中間であったとされている[8]。この最大額550万円は前述の重慶の事故の犠牲者の補償額である。日本国外で発生した事故で犠牲になった日本人に対する補償金としては、一切なしという事例[注釈 9]もあるため、支払額は極端に低いものではないが、充分な補償ではなかった。

一方、学校側は1988年12月27日に「事故の法律的責任はない」とする通知を遺族に送付し、学校が支払うのは見舞金200万円を含め800万円とした。別途に学校に全国から寄せられた義捐金約2億7000万円を分配し、一人当たり800万円を支払うとした。また日本体育・学校健康センター基金から災害共済給付金として一律1400万円が支給された。これらを合わせて、学校側は3000万円弱を支払った。

旅行保険も含め、犠牲になった生徒の遺族に支給された金銭補償は4000万円前後である。同時期に高校で発生した事件や事故の補償と比較すると、その金額はやや低かった[注釈 10]

前述のように学校側の不誠実な対応に不信感を募らせた遺族のうち、4遺族が不可解な旅行目的や無理な日程、事故後の対応など、学校側に法的責任があったとして、旅行会社まかせで旅行行程の下見をしていなかったことや遺族に対する誠意の欠如などを理由に高知地裁民事訴訟を提起した[9]。この訴訟は、1994年に旅行の下見が校長夫妻が修学旅行コースとは異なる観光地をパック旅行しただけという杜撰な面があったと指摘しつつも「事故の予見可能性はなかった」として、原告敗訴の判決が言い渡された。遺族側は控訴を断念したため確定した。

事故のその後

学校側による事故報告書は、事故から21年目の2009年3月に完成し、事故報告書を遺族を訪ねて直接手渡した[10]。この報告書は160ページで、修学旅行の計画や事故後の対応などが記述されている。3月15日には遺族に対する説明会が開催された。

事故報告書の完成まで年数が掛かった(学校側は人事異動を理由としていた)ことや、作成に当たり遺族らの聞き取りは行われていないとの批判があった。また1990年に完成した同高敷地内にある慰霊碑への氏名の記入や慰霊祭への参列を、学校側の対応には納得できないとして拒否する遺族もいる。

2016年7月には中国鉄道出版社にて刊行された鉄道事故再発防止用の資料には本事件についても記述され、先述したとおり新事実が判明しているが、再調査に至った経緯は不明である[3]


注釈

  1. ^ 事故で負傷はしたが生存している。
  2. ^ 鉄道のブレーキは機関車が客車を牽引する場合、列車全体に掛けられるブレーキと機関車だけに掛けられるブレーキの系統が分かれていることがある。この場合機関車と列車のブレーキを連結させるために、ブレーキホースを接続する必要がある。
  3. ^ 同国の「交通重罪」の刑罰は3年以上7年以下の懲役が規定されているという。参考までに日本の業務上過失致死の最高刑は懲役5年である
  4. ^ なお、同校の修学旅行は、同じ日時に中国へ行く班と東北へ行く班とに分かれていた。
  5. ^ 他には修学旅行生が速やかに帰国できるようにチャーター機の手配などの便宜を図った。
  6. ^ 朝日新聞[要文献特定詳細情報]の報道によれば中国では遺族年金の増額や、給料のよい職場に遺族を就職させることで対応したとの指摘もある。また中国人遺族に対する補償金は約27万円だったという
  7. ^ 事故原因は搭載されていたターボプロップエンジンの整備不良による空中爆発
  8. ^ 航空事故の事故賠償を定めたワルソー条約の最低額20,000USドルと同じ
  9. ^ 1978年3月に発生したビルマ国営航空(現在のミャンマー航空)の航空事故では、航空事故責任を免責する無責任約款で運行していることを理由に、経営者のビルマ政府(現在のミャンマー)が補償金の支払いを拒否している
  10. ^ 一例として1990年に発生した神戸高塚高校校門圧死事件では、事件の犠牲になった女子高生の遺族に兵庫県は6000万円の示談金を支払っている
  11. ^ 剣道において、攻撃特化で守りが極端に難しい上段を常用する剣士はかなり少ないといわれている。

出典

  1. ^ 上海列車事故 時事通信、2017年8月6日閲覧
  2. ^ 池井, 優. 上海列車事故をめぐる日中交渉. 法学研究 : 法律・政治・社会 (慶應義塾大学法学研究会). 1995-1, 68 (1): 54–55. ISSN 0389-0538
  3. ^ a b “上海列車事故 双方に過失 新事実、当局が再調査”. 毎日新聞. (2017年11月17日). https://mainichi.jp/articles/20171117/k00/00m/030/121000c 2017年11月17日閲覧。 
  4. ^ 朝日新聞 (朝日新聞社): p. [要ページ番号]. (1988年9月23日) 
  5. ^ 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 夕刊[要ページ番号]. (1988年11月25日) 
  6. ^ 朝日新聞 (朝日新聞社): p. [要ページ番号]. (1988年6月23日) 
  7. ^ 朝日新聞 (朝日新聞社): p. [要ページ番号]. (1988年8月2日) 
  8. ^ 朝日新聞 (朝日新聞社): p. [要ページ番号]. (1989年2月27日) 
  9. ^ 高知地方裁判所 平成元年(ワ)78号 判決大判例
  10. ^ “NHK高知「上海列車事故 遺族に報告書」”. NHKオンライン (日本放送協会). オリジナルの2008年12月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081208045708/http://www.nhk.or.jp/kochi/lnews/ 2009年3月7日閲覧。 
  11. ^ その後、2006年5月24日には、作曲者・中山大三郎の直弟子だった半田浩二がカバーしたシングルが発売され、2008年10月14日の『NHK歌謡コンサート』で北山たけしの歌唱で放送されている。
  12. ^ 高知学芸高校同窓会関東支部15周年上海の旅 - 高知学芸高等学校同窓会関東支部(アーカイブ)
  13. ^ 『青森放送50年史』109ページ「ネットワーク強化の時代」より。
  14. ^ 鉄道ファン』1989年3月号(通巻335号)p.76 沼田篤良「”オリエント急行”のプロジェクトを完遂して」


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