ルノー・ド・シャティヨン アンティオキア公時代

ルノー・ド・シャティヨン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/30 18:22 UTC 版)

アンティオキア公時代

1165年頃の十字軍国家とその周辺地域を示した地図(アンティオキア公国は中央上部の青色部分)

ボードゥアン3世の同意を得たコンスタンスはルノーと結婚した[3][8][18]。ルノーは1153年5月かその少し前にアンティオキア公となり[19]、同じ月にヴェネツィア商人の特権を承認した[20]。ギヨーム・ド・ティールは、臣下たちが「著名で、影響力があり、良家の出の」公女が身分の低い男と結婚したことに驚いたと記録している[11]。一方で現代の歴史家のアンドリュー・ジョティシュキーは、ルノーが西方の良家の出身であり、国に危険をもたらすような取り巻きもおらず、軍事経験もあったため、公国にとって政治的には好ましい人物だったと指摘している[21]。また、ルノーのものと認識できる硬貨は現存しておらず、バックによれば、このことはルノーの立場が比較的弱かったことを示している。レーモン・ド・ポワティエが発給した証書のおよそ半分がコンスタンスに言及することなく発給されていたのに対し、ルノーの証書の場合は常に妻の同意を経て決定を下したと言及されている[22]。その一方でルノーはジョフロワ・ジョルダニスをコネタブル(軍務長官)に、ジョフロワ・ファルサールをアンティオキアのドゥクスに任じるなど、最上級の官職の任命権は掌握していた[23][注 3]

ノルマン人の年代記作家のロベール・ド・トリニ英語版は、ルノーがアンティオキア公となってすぐにアレッポ人から3つの要塞を奪ったと記録しているが、これらの要塞の名前については言及していない[25]。また、アンティオキアの裕福な総大司教であったエムリー・ド・リモージュ英語版はコンスタンスの再婚に不快感を隠さなかった。バーバーが強調しているように、ルノーは「ひどく金に困っていた」にもかかわらず、エムリーはルノーに援助金を支払うことを拒否していた。1154年の夏にルノーはエムリーを拘束して拷問し、裸にさせて体に蜂蜜を塗ったまま太陽の下に座らせ、その後投獄した。エムリーはボードゥアン3世の要求によってようやく釈放されたが、すぐにアンティオキアからエルサレムへ逃亡した[18][26][27]。意外なことに、高位の聖職者を虐待したにもかかわらず、この時ルノーは破門されなかった。バックはエムリーが以前ティールの大司教の地位をめぐって教皇庁と対立していたため、ルノーは処罰を免れたのだと論じている。しかし、アンティオキアとジェノヴァの間で対立が起きた結果、エムリーは教皇庁の要求に応じて同年のうちにルノーを破門した[28]

アンティオキアに対する宗主権を主張していたビザンツ皇帝マヌエル1世は使節をルノーに派遣し[注 4]ビザンツ帝国による支配に反旗を翻したキリキアアルメニア人に対する軍事行動を開始するならばルノーを新しいアンティオキア公として承認すると提案した[注 5]。さらに、軍事行動にかかる費用をルノーに補償することも約束した[18]。ルノーは1155年にアレクサンドレッタでアルメニア人を破ったが、その後、この衝突から少し前の時期にアルメニア人が侵略していたシリア門(現代のベレン峠英語版)の一帯をテンプル騎士団が支配するようになった[32]。はっきりとした史料の裏付けはないものの、バーバーと歴史家のスティーヴン・ランシマンは、ルノーがこの地域の領地をテンプル騎士団に与えたとする見解を示している[27][32]

ビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスの肖像。マヌエル1世はルノーによるキプロスの襲撃に対する懲罰的な遠征を実施し、ルノーを従えてアンティオキアに入城した。

常に資金を必要としていたルノーはマヌエル1世に対し約束していた補償金を送るように促したが、マヌエル1世はその支払いを怠った[27]。結局、ルノーはキリキア・アルメニア王国の君主であるトロス2世英語版(在位:1144/5年 - 1169年)と同盟を結んだ。両者は1156年の初頭にキプロスを攻撃し、繁栄していたビザンツ帝国の島を3週間にわたり略奪した[33][34][注 6]。その後、ビザンツ帝国の艦隊がキプロスに接近しているという噂を聞きつけると両者はキプロスから去ったが、その際にマヌエル1世の甥にあたるヨハネス・ドゥーカス・コムネノス英語版を含む特に裕福な人々を捕虜としてアンティオキアに連行し、残りの全てのキプロス人に対し身代金の支払いを強要した[33][36]

ボードゥアン3世はフランドル伯ティエリー・ダルザスとその軍隊が聖地(パレスチナ)に駐留していたことと、シリア北部のほとんどの都市が地震によって破壊された状況を利用し、1157年の秋にオロンテス川流域のイスラーム教徒の支配地へ侵攻した[37]。ルノーはボードゥアン3世の軍隊に加わり、シャイザル英語版を包囲した[36][37]。この時点におけるシャイザルはシーア派の流れを汲む暗殺教団の支配下に置かれていたが、地震が起こる以前はルノーに毎年貢納金を支払っていたスンナ派ムンキズ族英語版の本拠地であった[37]。ボードゥアン3世はティエリーにシャイザルの要塞を与えるつもりだったが、ルノーはこの町と引き換えにティエリーが自分に対し臣従礼を取るように要求した。しかし、ティエリーは成り上がり者に対する忠誠の宣言を拒絶し、最終的に十字軍は町の包囲を断念した[38]。その後、十字軍はハーリム英語版に進軍した。そのハーリムは1150年にザンギー朝の君主であるヌールッディーンが攻略するまではアンティオキア人の要塞であった[39]。1158年2月に十字軍がハーリムを占領すると、ルノーはフランドル出身の騎士であるルノー・ド・サン=ヴァレリードイツ語版にハーリムを与えた[38][40]

ルノーとトロス2世によるキプロスへの襲撃に対する報復として、1158年12月にマヌエル1世が突如キリキアに侵攻し、攻撃を受けたトロス2世は山中への避難を余儀なくされた[41][42][43]。本格的なビザンツ軍の侵攻を前にして抵抗できなかったルノーは皇帝に対し自ら進んで服従の意志を示すためにマミストラ英語版へ急行した[35][40][41]。ルノーとその家臣たちはマヌエル1世の要求に応じて頭に何も冠ることなく素足のまま町中を歩き、皇帝の天幕まで行くとそこでひれ伏して慈悲を求めた[44][45]。ルノーが屈辱を強いられた場には近隣のイスラーム教徒やキリスト教徒の支配者たちから派遣された使者も同席していたため、ギヨーム・ド・ティールはこの出来事について、「ラテン世界の栄光は恥辱に転じた」と述べている[46][47]。マヌエル1世はアンティオキアにギリシア正教総主教を置くように要求した。この要求はすぐには受け入れられなかったが、その一方でジェラールという名の当時ラタキアのカトリックの司教であった人物がエルサレムへの転出を余儀なくされたとする文書の証拠が残されている[48]。ルノーは必要な時にはいつでもビザンツ軍の守備隊が城塞に駐留することを認め、ビザンツ軍とともに戦う部隊を派遣することを誓約させられた[44]。それから間もなくエルサレム王のボードゥアン3世もマヌエル1世の下を訪れ[注 7]、アンティオキアに総主教を置くことを認める代わりに総大司教のエムリーをアンティオキアへ戻すことにも同意するようにマヌエル1世を説得し、これを認めさせた[42][51]。マヌエル1世は1159年4月12日に非常に壮麗な儀式を伴いながらアンティオキアに入城したが、この時ルノーはマヌエル1世の馬の馬具を手に取りながら徒歩で行進していた[42][51][52]。マヌエル1世はしばらくアンティオキアに滞在し、8日後に町を離れた[52][53]

ルノーは1160年11月か1161年に略奪のためにユーフラテス川流域で奇襲を仕掛け、マラシュでは現地の農民から牛や馬、さらにはラクダを奪った[54][55][56]。ヌールッディーンのアレッポの軍司令官であったマジュドゥッディーンは兵を集め(同時代の歴史家であるエデッサのマタイオスによれば1万人)、アンティオキアへ戻る途中のルノーとその従者を攻撃した[54][57]。ルノーは戦おうとしたが、馬から落とされて捕らえられ、アレッポに連行されるとそこで投獄された[55]


注釈

  1. ^ ルノーと同時代の歴史家であるエルヌール英語版は、ルノーがフランスの「ジエンの領主の兄弟」であったと述べている。リシャールは年代的な理由から、このジエンの領主はドンジー領主のジョフロワ2世の兄弟であり、1153年に花嫁の持参金としてジエン城英語版を娘のアリックスに与えたエルヴェ以外には考えにくいとしている。この2人の兄弟もルノーと同様にエルヴェ2世・ド・ドンジーの息子であった[4]
  2. ^ エデッサ伯国アンティオキア公国エルサレム王国トリポリ伯国といった十字軍国家は1098年から1105年にかけて行われた第1回十字軍の結果、西欧の貴族たちによって中東地域に建国された。狭く細長い土地を占領していた十字軍国家はその存続を外部からの支援に依存しており、十字軍国家の指導者たちはしばしばヨーロッパのカトリックの支配者たちに救援を求めた[9]
  3. ^ アンティオキアのドゥクス(dux)は公国に存在した11の最高位の官職の一つであったが、国家運営におけるドゥクスの役割に関する詳細な情報は参照することができる史料の中には残されていない[24]
  4. ^ コンスタンスの父方の祖父でイタロ・ノルマン英語版系の貴族であったボエモン1世(在位:1098年 - 1111年)は、かつてのビザンツ帝国の領土にアンティオキア公国を建国したが、ビザンツ帝国はこの地域に対する領有権の主張を決して放棄しようとはしなかった。当初、ボエモン1世は1108年に結ばれたディアボリス条約英語版によってアンティオキア公国に対するビザンツ帝国の宗主権を認めさせられたが、この条約が実効性を持つことはなかった。その後、1137年にレーモン・ド・ポワティエはビザンツ皇帝ヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)に対する忠誠を宣言した[29][30]
  5. ^ キリキアの山岳地帯に割拠していたアルメニア人軍閥の指導者たちは十字軍国家の成立を利用してビザンツ帝国やトルコ人の隣国に対する立場を強化した。キリキア・アルメニア王国ルーベン朝英語版は十字軍(あるいはフランク人)と密接に協力し、しばしばアンティオキア公の宗主権を受け入れた[31]
  6. ^ この時のキプロスへの侵攻では略奪行為の他にも町への放火や住民の虐殺といった残虐行為も行われていた[35]
  7. ^ ボードゥアン3世はマヌエル1世の姪のテオドラ英語版と結婚しており、当時のエルサレム王国とビザンツ帝国は同盟関係にあった。この時ボードゥアン3世がマヌエル1世の下を訪れた目的の一つはアンティオキア公国を自らの影響下に置くことに対するビザンツ皇帝の承認を取り付けることにあったが、マヌエル1世はルノーのアンティオキア公の地位を安堵した[49]。ビザンツ学者の根津由喜夫は、その意図について、十字軍諸国が一人の君主の下に統合されるのを防ぎ、分断された状況を維持することで周辺諸国に対するビザンツ帝国の優位な立場を維持することにあったと述べている[50]
  8. ^ エデッサ伯国自体はザンギー朝を樹立したイマードゥッディーン・ザンギーによって1144年にエデッサ攻略され英語版、すでに消滅していた。このエデッサ陥落の事件は第2回十字軍が派遣される契機となった[59]
  9. ^ サラーフッディーンはもともとはヌールッディーンの家臣だった人物であり[61]、エルサレム王国の侵攻を受けたファーティマ朝の要請に応じてヌールッディーンが派遣した遠征軍(指揮官はサラーフッディーンの叔父のシールクーフが務めていた)に加わる形で1169年にエジプトに入っていた[62]。その後、ファーティマ朝のワズィール(宰相)に就任したシールクーフの死を受けて同年に後任のワズィールとなり[63]、1171年にはファーティマ朝自体を廃してエジプトで事実上独立した[64]。1174年のヌールッディーンの急死はヌールッディーンがサラーフッディーンを討伐するための軍隊を編成していた最中のことであった[65]
  10. ^ このルノーによる海軍の遠征を機に紅海で活動していたユダヤ教徒やキリスト教徒の商人は締め出され、カーリミー商人と呼ばれるイスラーム教徒の商人集団が紅海における貿易活動の主役を担うようになった[111]
  11. ^ オート・クール(haute cour)(別用語で国王宮廷会議(curia regis)とも呼ばれる)は国王主催で封建家臣が参加するエルサレム王国の最高審議機関であったが、その他の審議機関としては、緊急時や非常事態への対応のために広く聖俗の有力者が参加する総会・全体会議(curia generalis/parlement)や諮問会議(consilium/conseil)などがあった[120]

出典

  1. ^ a b c Hamilton 2000, p. 104.
  2. ^ Barber 2012, p. 201.
  3. ^ a b c Runciman 1989, p. 345.
  4. ^ Richard 1989, pp. 410, 416.
  5. ^ Richard 1989, pp. 412–413.
  6. ^ Richard 1989, p. 410.
  7. ^ a b Cotts 2021, p. 43.
  8. ^ a b c d e Barber 2012, p. 206.
  9. ^ Barber 2012, pp. 4–25.
  10. ^ a b Hamilton 2000, p. 98.
  11. ^ a b c Hamilton 1978, p. 98 (note 8).
  12. ^ Barber 2012, pp. 152–153.
  13. ^ Lock 2006, pp. 40, 50.
  14. ^ Runciman 1989, pp. 330–332, 345.
  15. ^ Buck 2017, pp. 77–78.
  16. ^ a b Buck 2017, p. 78.
  17. ^ Buck 2017, p. 228.
  18. ^ a b c Baldwin 1969, p. 540.
  19. ^ Runciman 1989, p. 345 (note 1).
  20. ^ Runciman 1989, pp. 345–346 (note 1).
  21. ^ ジョティシュキー 2013, p. 145.
  22. ^ Buck 2017, pp. 78–79, 116.
  23. ^ Buck 2017, p. 90.
  24. ^ Buck 2017, pp. 88–89.
  25. ^ Buck 2017, p. 42.
  26. ^ Buck 2017, p. 104.
  27. ^ a b c Barber 2012, p. 209.
  28. ^ Buck 2017, pp. 104–105, 107.
  29. ^ Morton 2020, p. 43.
  30. ^ Barber 2012, pp. 83, 169–170.
  31. ^ Morton 2020, pp. 85–86.
  32. ^ a b Runciman 1989, p. 346.
  33. ^ a b Runciman 1989, p. 347.
  34. ^ Morton 2020, p. 130.
  35. ^ a b 根津 1999, p. 204.
  36. ^ a b Baldwin 1969, p. 541.
  37. ^ a b c Runciman 1989, p. 348.
  38. ^ a b Baldwin 1969, p. 542.
  39. ^ Runciman 1989, pp. 327, 349.
  40. ^ a b Runciman 1989, p. 349.
  41. ^ a b Baldwin 1969, p. 543.
  42. ^ a b c Barber 2012, p. 213.
  43. ^ 根津 1999, pp. 203–204.
  44. ^ a b Runciman 1989, p. 352.
  45. ^ 根津 1999, p. 205.
  46. ^ a b c d e Hamilton 1978, p. 98.
  47. ^ 根津 1999, pp. 204–205.
  48. ^ Buck 2017, p. 105.
  49. ^ 根津 1999, pp. 206–207.
  50. ^ 根津 1999, pp. 211–212.
  51. ^ a b Runciman 1989, p. 353.
  52. ^ a b 根津 1999, p. 208.
  53. ^ Runciman 1989, p. 354.
  54. ^ a b c Baldwin 1969, p. 546.
  55. ^ a b Runciman 1989, p. 357.
  56. ^ Barber 2012, p. 214.
  57. ^ Morton 2020, p. 133.
  58. ^ a b Runciman 1989, p. 358.
  59. ^ 太田 2011, pp. 21, 39–40.
  60. ^ a b Runciman 1989, p. 365.
  61. ^ 佐藤 2011, p. 63.
  62. ^ 佐藤 2011, pp. 74–77.
  63. ^ 佐藤 2011, pp. 79–81.
  64. ^ 佐藤 2011, pp. 96–97.
  65. ^ 佐藤 2011, p. 114.
  66. ^ Hamilton 2000, pp. 82, 98, 103.
  67. ^ Runciman 1989, p. 408.
  68. ^ Barber 2012, p. 365.
  69. ^ Hamilton 2000, p. 112.
  70. ^ Hamilton 2000, p. 105.
  71. ^ a b Hamilton 1978, p. 99.
  72. ^ Barber 2012, p. 264.
  73. ^ a b Hamilton 2000, p. 111.
  74. ^ Lock 2006, p. 63.
  75. ^ a b c Hamilton 2000, p. 117.
  76. ^ Hamilton 1978, p. 100 (note 22).
  77. ^ Baldwin 1969, p. 593 (note 2).
  78. ^ a b Barber 2012, p. 268.
  79. ^ Hamilton 2000, p. 118.
  80. ^ Barber 2012, pp. 268–269.
  81. ^ Hamilton 2000, p. 123.
  82. ^ Hamilton 2000, p. 133.
  83. ^ Barber 2012, pp. 270–271.
  84. ^ Hamilton 1978, p. 100 (note 24).
  85. ^ Hamilton 1978, p. 101 (note 25).
  86. ^ Baha ad-Din b. Shaddad 2001, p. 54.
  87. ^ Hamilton 1978, p. 101 (note 26).
  88. ^ a b Barber 2012, p. 275.
  89. ^ Hamilton 1978, p. 101.
  90. ^ Hamilton 1978, p. 101 (note 27).
  91. ^ Barber 2012, p. 277.
  92. ^ Hamilton 1978, p. 101 (note 29).
  93. ^ Barber 2012, p. 276.
  94. ^ Hamilton 1978, p. 103 (note 39).
  95. ^ a b c Runciman 1989, p. 431.
  96. ^ Hamilton 1978, p. 102.
  97. ^ Hamilton 2000, pp. 170–171.
  98. ^ a b Hamilton 2000, p. 171.
  99. ^ Hamilton 2000, pp. 171–172.
  100. ^ Hamilton 1978, p. 103 (note 42).
  101. ^ Lock 2006, pp. 61, 66.
  102. ^ a b Hamilton 1978, p. 103.
  103. ^ Barber 2012, p. 278.
  104. ^ a b c Barber 2012, p. 284.
  105. ^ Hamilton 2000, p. 180.
  106. ^ Mallett 2008, p. 142.
  107. ^ Mallett 2008, pp. 142–143.
  108. ^ a b Runciman 1989, p. 437.
  109. ^ Mallett 2008, p. 143.
  110. ^ Hamilton 2000, p. 181.
  111. ^ 佐藤 2011, pp. 145–146.
  112. ^ Baldwin 1969, p. 599.
  113. ^ Barber 2012, p. 281.
  114. ^ Barber 2012, p. 282.
  115. ^ a b Runciman 1989, p. 440.
  116. ^ Runciman 1989, pp. 440–441.
  117. ^ a b c Runciman 1989, p. 441.
  118. ^ a b c d e f g Hamilton 2000, p. 225.
  119. ^ Barber 2012, p. 289.
  120. ^ 櫻井 2020, pp. 164–165, 198–202, 索引3–4.
  121. ^ Barber 2012, pp. 289–290, 293.
  122. ^ Hamilton 2000, p. 218.
  123. ^ Baldwin 1969, p. 604.
  124. ^ Hamilton 2000, p. 220.
  125. ^ a b Barber 2012, p. 294.
  126. ^ Barber 2012, pp. 294–295.
  127. ^ a b Baldwin 1969, p. 605.
  128. ^ Barber 2012, p. 295.
  129. ^ Hamilton 1978, pp. 107–108.
  130. ^ a b c d e f g Hamilton 1978, p. 107.
  131. ^ Hamilton 1978, pp. 106–107.
  132. ^ a b c d Barber 2012, p. 297.
  133. ^ a b Runciman 1989, p. 450.
  134. ^ 佐藤 2011, pp. 178–179.
  135. ^ Baldwin 1969, p. 606.
  136. ^ Cobb 2016, p. 185.
  137. ^ Ibn al-Athir 2007, pp. 316–317.
  138. ^ Runciman 1989, p. 454.
  139. ^ Hamilton 2000, p. 227.
  140. ^ a b Hamilton 2000, p. 229.
  141. ^ Barber 2012, p. 299.
  142. ^ 佐藤 2011, p. 180.
  143. ^ Baldwin 1969, p. 610.
  144. ^ a b 太田 2011, p. 53.
  145. ^ Barber 2012, p. 300.
  146. ^ Barber 2012, p. 301.
  147. ^ 佐藤 2011, p. 181.
  148. ^ ジョティシュキー 2013, p. 162.
  149. ^ Barber 2012, p. 304.
  150. ^ a b c d Barber 2012, p. 306.
  151. ^ 佐藤 2011, p. 182.
  152. ^ a b c d e Runciman 1989, p. 459.
  153. ^ 佐藤 2011, pp. 182–183.
  154. ^ 佐藤 2011, p. 183.
  155. ^ Cotts 2021, p. 42.
  156. ^ Mallett 2014, p. 72 (note 49).
  157. ^ a b Nicholson 1973, p. 162.
  158. ^ Barber 2012, pp. 306, 423.
  159. ^ Runciman 1989, p. 460.
  160. ^ a b ジョティシュキー 2013, p. 193.
  161. ^ 太田 2011, p. 54.
  162. ^ 太田 2011, p. 55.
  163. ^ Runciman 1989, p. 183, Appendix III (Genealogical tree No. 2).
  164. ^ Runciman 1989, p. 183.
  165. ^ Runciman 1989, p. 199.
  166. ^ Buck 2017, p. 79.
  167. ^ Makk 1994, pp. 47, 91.
  168. ^ a b Makk 1994, p. 47.
  169. ^ Makk 1994, p. 91.
  170. ^ Chiappini 2001, p. 31.
  171. ^ Buck 2017, p. 83.
  172. ^ Hamilton 2000, pp. xviii, 40–41.
  173. ^ Runciman 1989, p. 365, Appendix III (Genealogical tree No. 2).
  174. ^ Runciman 1989, p. 413.
  175. ^ Runciman 1989, p. 335 (note 1), Appendix III (Genealogical tree No. 4).
  176. ^ a b Hamilton 2000, p. 90.
  177. ^ Runciman 1989, p. 441 (note 1).
  178. ^ a b Hamilton 2000, p. 92.
  179. ^ Baldwin 1969, p. 592 (note 592).
  180. ^ a b c Hamilton 1978, p. 97.
  181. ^ Baha ad-Din b. Shaddad 2001, p. 37.
  182. ^ Barber 2012, pp. 306, 423, 435.
  183. ^ Hamilton 1978, p. 97 (note 1).
  184. ^ a b Mallett 2008, p. 141.
  185. ^ Cobb 2016, pp. xx, 185.
  186. ^ Hamilton 1978, pp. 102, 104–106.
  187. ^ Cobb 2016, p. 306 (note 31).
  188. ^ ジョティシュキー 2013, p. 161.
  189. ^ Gabriele 2018, p. 613.
  190. ^ Liu 2017, p. 89.





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ルノー・ド・シャティヨン」の関連用語

ルノー・ド・シャティヨンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ルノー・ド・シャティヨンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのルノー・ド・シャティヨン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS