ルノー・ド・シャティヨン トランスヨルダン領主時代

ルノー・ド・シャティヨン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/30 18:22 UTC 版)

トランスヨルダン領主時代

初期の統治

1177年の初頭にコンスタンティノープルから帰還したルノーは十字軍のトランスヨルダン領英語版ヨルダン川東岸地域)の相続人であったステファニー・ド・ミイィ英語版と結婚し、ボードゥアン4世からヘブロンも与えられた[75]。ルノーを「ヘブロンおよびモンレアル領主」と称する現存する最初の証書は1177年11月に発給されている[76]。ルノーは60人の騎士を王国政府に奉仕させており、これは王国で最も裕福な直臣の一人となっていたことを示している[75][77]。さらに、ルノーはサラーフッディーンが支配する2つの主要な領土であるシリアとエジプトを結ぶ交通路をケラク城英語版モンレアル城英語版から支配していた[78]。ルノーとボードゥアン4世の義兄にあたるギヨーム・ド・モンフェラート英語版は連帯してモンテ・ガウディオ騎士団英語版の創設者であるロドリゴ・アルバレス英語版に広大な地所を与え、王国の南部と東部の辺境地帯の防衛を強化した[75]。その後、1177年6月にギヨーム・ド・モンフェラートが死去すると、ボードゥアン4世はルノーを王国の摂政に任命した[79]

猛禽と要塞の姿が描かれているルノーの印章

1177年8月初旬にボードゥアン4世の従兄にあたるフランドル伯フィリップ1世が十字軍を率いて聖地を訪れた[78]。国王はフィリップ1世に摂政職を用意すると申し出たが、フィリップ1世は王国に留まりたくないと語り、この提案を拒否した[80]。その一方でフィリップ1世は誰からの命令でも「快く応じる」と明言したが、特別な権力を持たない軍司令官が軍隊を率いるべきだと考えていたため、ボードゥアン4世がルノーの「王国と軍隊の摂政」の地位を認めた際には抗議の意思を示した[81]。結局、フィリップ1世は到着してから1か月後に王国を去った[82]

その後、サラーフッディーンがアスカロン地方に侵攻したが、1177年11月25日に起こったモンジザールの戦いで王国軍がサラーフッディーンの軍に攻撃を加え、これを打ち破ることに成功した[83]。ギヨーム・ド・ティールとエルヌールはこの勝利をボードゥアン4世の功績に帰しているが、バハーウッディーン・ブン・シャッダード英語版を始めとするイスラーム教徒の作家たちはルノーが軍隊の最高司令官であったと記録している[84]。バハーウッディーンによれば[85]、サラーフッディーン自身はこの戦いを「神が名高いヒッティーンの戦いで修復した大敗北」と呼んだ[86]

ルノーは1177年から1180年にかけて国王証書の大半に署名しており、署名者の中でルノーの名前が常に筆頭に挙げられていることから、この期間はルノーが国王の下で最も影響力のある公職者であったことを示している[87]。ルノーは王国内の多くの有力者が反対したにもかかわらず、1180年の初頭に国王の姉にあたるシビーユと結婚したギー・ド・リュジニャンの重要な支持者の一人となった[88][89]。1180年の秋に国王の異母妹のイザベル(イザベルの継父のバリアン・ディブラン英語版はギー・ド・リュジニャンと敵対していた)はルノーの継子のオンフロワ4世・ド・トロンと婚約した[88]

ボードゥアン4世は1181年の初頭にボエモン3世と総大司教エムリーの和解を仲介するため、エルサレム総大司教英語版エラクリウス英語版とともにルノーを使者として派遣した[90][91]。同じ年にキリシア・アルメニア王国の君主であるルーベン3世英語版(在位:1175年 - 1187年)はルノーの継娘のイザベル・ド・トロン英語版と結婚した[92]

サラーフッディーンとの戦い

現代のヨルダンカラクに残る十字軍のトランスヨルダン領英語版の主要な城塞であったケラク城英語版

ルノーは1180年代にサラーフッディーンと戦った唯一のキリスト教徒の指導者だった[93]。同時代の年代記作家であるエルヌールは、ルノーが停戦の合意を破り、エジプトとシリアの間を行き来するキャラバンを2度にわたり襲撃したと記録している[94]。現代の歴史家の間では、このような行動が戦利品に対する欲求から生まれたものなのか[95]、あるいはサラーフッディーンによる新たな領土の併合を阻止するための意図的な作戦行動だったのか議論されている[96]。ザンギー朝でヌールッディーンの跡を継いだアル=マリク・アッ=サーリフ・イスマーイールは1181年11月18日に死去した。サラーフッディーンはこの機会に乗じてアレッポを占領しようとしたが、この時ルノーはサラーフッディーンが支配する領土を急襲し、その襲撃はダマスクスメッカを結ぶルート上に位置するタブークにまで達した[97]。サラーフッディーンの甥にあたるファッルフ・シャー英語版はルノーをアラビア砂漠から強制的に撤退させるため、アレッポを攻撃する代わりにトランスヨルダンに侵攻した[98]。それから間もなくルノーはあるキャラバンを襲撃し、キャラバンの人々を投獄した[98]。サラーフッディーンによる抗議を受けてボードゥアン4世はルノーが捕らえた者たちの釈放を命じたが、ルノーはこれを拒否した[99]。国王はルノーの反抗的な態度に頭を悩ませ、このような状況はトリポリ伯レーモン3世(在位:1152年 - 1187年)の支持者たちによる国王とトリポリ伯の和解の実現を可能にした[100]。ボードゥアン4世の近親者であったレーモン3世は1174年に摂政の地位に就いていたが、病に苦しんでいた国王に陰謀を企てたとされ、王国から追放されていた[101]。レーモン3世が王宮に帰還したことでルノーの最高位の権力者としての立場は終わりを迎えたが、ルノーはこの新たな状況を受け入れ、レーモン3世に協力した[102]。また、1182年の冬に行われた国王とレーモン3世によるダマスクスに対する軍事作戦にも関与した[102]

サラーフッディーンはエジプトに海軍を復活させ、ベイルートを占領しようとしたが、最終的にサラーフッディーンの船団は撤退を余儀なくされた[103]。その一方でルノーはトランスヨルダンで少なくとも5隻の船の建造を命じ、これらの船は1183年の1月か2月にネゲブ砂漠を越えて紅海の北端に位置するアカバ湾に運ばれた[104][105][106]。ルノーはアイラ(現在のイスラエルエイラート)の砦を占領し、ファラオ島のエジプトの要塞を攻撃した。ルノーの艦隊の一部は海岸沿いでイスラーム教徒の巡礼者や物資を運ぶ船を略奪し、聖地であるメッカとマディーナの安全を脅かした[104][107]。しばらくしてルノーは島を去ったものの、配下の艦隊は包囲を続けた[108]。サラーフッディーンの弟でエジプト総督のアル=アーディルは紅海に艦隊を派遣した。エジプト軍はファラオ島を解放し、キリスト教徒の艦隊を壊滅させた。その後、逃亡のためかマディーナを攻撃するために上陸した一部の兵士がマディーナの近郊で捕らえられた。ルノーの配下の者たちは処刑され、サラーフッディーンは決してルノーを許さないと誓った[108][109]。ハミルトンはルノーによるこの海軍の遠征について、「驚くべき水準の構想を見せた」と述べているが、現代の歴史家の多くはこの遠征がサラーフッディーンの支配の下でシリアとエジプトが統一される要因の一つになったと認めている[110][注 10]。そのサラーフッディーンは1183年6月にアレッポを占領し、十字軍国家に対する包囲網を完成させた[112]

病状が深刻化していたボードゥアン4世は1183年10月にギー・ド・リュジニャンを摂政に任じた[113]。しかし、1か月も経たないうちにギーを解任し、ギーの5歳の継子であるボードゥアン5世英語版(在位:1183年 - 1186年)を共同の王位に就けた[114]。同じ頃にルノーは継子のオンフロワ4世とボードゥアン4世の異母妹であるイザベルの結婚式のためにケラクに滞在していたため、ボードゥアン5世の戴冠式には出席しなかった[115]。ところが、この時サラーフッディーンが突如としてトランスヨルダンに侵攻し、現地の住民はケラクへの避難を余儀なくされた[115]。サラーフッディーンは町に侵入したが、家臣の一人が町と城を結ぶ橋の奪取を妨害したことでルノーは一人城塞へ逃げ込むことに成功した[116]。その後、ケラクの城塞はサラーフッティーンによって包囲された英語版が、エルヌールはルノーの妻がサラーフッディーンに結婚式の料理を送り、息子夫婦が滞在する塔への砲撃を止めるように説得したと伝えている[117]。ケラクからの使者がボードゥアン4世にケラクの包囲を知らせると、国王とレーモン3世の指揮の下で王国軍がエルサレムからケラクに向かった[117]。これに対してサラーフッディーンは敵の援軍が到着する前の12月4日に包囲を放棄した[117]。その後、サラーフッディーンの命令によって、イッズッディーン・ウサーマ英語版がルノーの領地の北端に近いアジュルーンラバド城英語版を築いた[118]

シビーユとギーのエルサレム王への擁立

シビーユの手によるギー・ド・リュジニャンの戴冠。ギーの妻であったシビーユはルノーの支持もありギーとともにエルサレム王となった。(ギヨーム・ド・ティールが著した『歴史』とその『続編』の15世紀後半の写本より)

ボードゥアン4世は1185年の初頭に死去し[104]、後継者である幼少のボードゥアン5世も1186年の夏の終わりに死去した[119]。以前に開かれたオート・クール英語版[注 11]では、ボードゥアン5世の母であるシビーユ(ギー・ド・リュジニャンの妻)とその妹のイザベル(ルノーの継子であるオンフロワ4世の妻)のいずれも、ローマ教皇神聖ローマ皇帝フランス王、そしてイングランド王による決定を経ることなくボードゥアン5世の合法的な後継者として戴冠することはできないとする裁定が下されていた[121]。しかし、シビーユの叔父であるエデッサ伯ジョスラン3世はルノーをはじめとする有力な王室関係者や高位聖職者の支持を得てエルサレムの支配権を掌握した[122][123]。『エラクル年代記』によれば、ルノーは都市の人々にシビーユを合法的な君主として受け入れるように呼びかけた[124]。その一方でトリポリ伯レーモン3世とその支持者たちはシビーユの戴冠を阻止しようとし、シビーユの支持者たちにオート・クールにおける裁定を思い起こさせようとした[125]。ルノーとテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォール英語版は反対者たちの抗議を無視してシビーユとともに聖墳墓教会に向かい、そこでシビーユを戴冠させた[125]。シビーユは夫の戴冠式の手筈も整えたが、夫のギーはシビーユの支持者たちの間ですら人気のない人物だった[126][127]。シビーユの反対派はルノーの継子であるオンフロワ4世・ド・トロンに対し妻のイザベルのために王位を要求するように説得を試みたものの、オンフロワ4世は反対派に与せず、シビーユとギーに忠誠を誓った[127][128]。ルノーは1186年10月21日から1187年3月7日の間に発給された4つの国王証書における筆頭の世俗者の連署人となっており、ルノーが新しい国王の宮廷において最も重要性の高い人物になっていたことを示している[129]

キャラバンの襲撃

イブン・アル=アスィールを始めとするイスラーム教徒の歴史家は、ルノーが1186年にサラーフッディーンと単独で停戦協定を結んだと記している[118]。エルサレム王国とサラーフッディーンの間ではこれとは別に停戦協定が結ばれていたが、ルノーの領地は法的には大規模な封土として王国内に含まれていたため、ハミルトンはルノーが単独で結んだとするこの停戦協定について、「恐らく事実ではないと思われる」と述べている[118]

1186年の末か1187年の初頭にエジプトからシリアに向かうある裕福な人々のキャラバンがトランスヨルダンを通過した[118]。イブン・アル=アスィールはこのキャラバンについて武装した一団が同行していたと記している[130]。ルノーはこのキャラバンを襲撃したが、ハミルトンによれば、この行動は恐らくルノーが兵士の存在を停戦協定の違反とみなしたためであった[131][132]。ルノーはすべての商人とその家族を捕虜にし、大量の物資を強奪しただけでなく、サラーフッディーンから派遣された賠償を求める使節との面会も拒否した[132][133][134]。サラーフッディーンは代わりにギー・ド・リュジニャンに使節を派遣し、ギーはサラーフッディーンの要求を受け入れた[132]。しかし、ルノーは国王の指示に従うことを拒否した。『エラクル年代記』の記述によれば、この時ルノーは「ギーが自身の土地の領主であるのと同じように、自分も自身の土地の領主であり、自分はサラセン人とは停戦していない」と語った。バーバーによれば、このようなルノーの不服従は、ギーの統治下で王国が「半自律的な封土の集合体に分裂する寸前にあった」ことを示している[132]。サラーフッディーンはエルサレム王国に対するジハード(聖戦)を宣言し、停戦を破ったルノーを自らの手で殺すと誓った[135]。歴史家のポール・M・コブ英語版は、サラーフッディーンが「同志であるイスラーム教徒との戦争にあまりにも多くの時間を費やしていると批判する人々を黙らせるために、フランク人に対する勝利を強く必要としていた」と述べている[136]

キャラバンに対するルノーの攻撃について
ケラクの領主ルノー公は、フランク人の中で最も重要かつ邪悪な人物の一人であり、イスラーム教徒に対して最も敵対的で、最も危険な人物であった。それを知っていたサラーフッディーンは、障害を伴いながらも何度も何度もルノーを標的にし、その領地を次から次へと襲撃した。その結果、ルノーは屈辱を味わい、誇りを傷つけられ、サラーフッディーンに停戦を願い出た。停戦は成立し、正式に誓いが立てられた。その後、キャラバンがシリアとエジプトを行き来するようになった。(ヒジュラ暦582年に)かなりの数の兵士が同行し、豊富な物資を運んでいた大人数のキャラバンがルノーの近くを通りかかった。この忌まわしい者は信用を裏切って一人残らず捕らえ、キャラバンの物資、動物、そして武器を戦利品とした。そして捕らえた者たちを捕虜にし、牢獄に閉じ込めた。サラーフッディーンはルノーを非難し、その裏切り行為を嘆き、捕虜と物資を自由にしなければルノーを脅すと伝えたが、ルノーはそれに応えず、拒否を貫いた。サラーフッディーンは、もしルノーを自分の手許に置けるようなことがあれば、殺すと誓った。
イブン・アル=アスィール, 『完史』より[137]

注釈

  1. ^ ルノーと同時代の歴史家であるエルヌール英語版は、ルノーがフランスの「ジエンの領主の兄弟」であったと述べている。リシャールは年代的な理由から、このジエンの領主はドンジー領主のジョフロワ2世の兄弟であり、1153年に花嫁の持参金としてジエン城英語版を娘のアリックスに与えたエルヴェ以外には考えにくいとしている。この2人の兄弟もルノーと同様にエルヴェ2世・ド・ドンジーの息子であった[4]
  2. ^ エデッサ伯国アンティオキア公国エルサレム王国トリポリ伯国といった十字軍国家は1098年から1105年にかけて行われた第1回十字軍の結果、西欧の貴族たちによって中東地域に建国された。狭く細長い土地を占領していた十字軍国家はその存続を外部からの支援に依存しており、十字軍国家の指導者たちはしばしばヨーロッパのカトリックの支配者たちに救援を求めた[9]
  3. ^ アンティオキアのドゥクス(dux)は公国に存在した11の最高位の官職の一つであったが、国家運営におけるドゥクスの役割に関する詳細な情報は参照することができる史料の中には残されていない[24]
  4. ^ コンスタンスの父方の祖父でイタロ・ノルマン英語版系の貴族であったボエモン1世(在位:1098年 - 1111年)は、かつてのビザンツ帝国の領土にアンティオキア公国を建国したが、ビザンツ帝国はこの地域に対する領有権の主張を決して放棄しようとはしなかった。当初、ボエモン1世は1108年に結ばれたディアボリス条約英語版によってアンティオキア公国に対するビザンツ帝国の宗主権を認めさせられたが、この条約が実効性を持つことはなかった。その後、1137年にレーモン・ド・ポワティエはビザンツ皇帝ヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)に対する忠誠を宣言した[29][30]
  5. ^ キリキアの山岳地帯に割拠していたアルメニア人軍閥の指導者たちは十字軍国家の成立を利用してビザンツ帝国やトルコ人の隣国に対する立場を強化した。キリキア・アルメニア王国ルーベン朝英語版は十字軍(あるいはフランク人)と密接に協力し、しばしばアンティオキア公の宗主権を受け入れた[31]
  6. ^ この時のキプロスへの侵攻では略奪行為の他にも町への放火や住民の虐殺といった残虐行為も行われていた[35]
  7. ^ ボードゥアン3世はマヌエル1世の姪のテオドラ英語版と結婚しており、当時のエルサレム王国とビザンツ帝国は同盟関係にあった。この時ボードゥアン3世がマヌエル1世の下を訪れた目的の一つはアンティオキア公国を自らの影響下に置くことに対するビザンツ皇帝の承認を取り付けることにあったが、マヌエル1世はルノーのアンティオキア公の地位を安堵した[49]。ビザンツ学者の根津由喜夫は、その意図について、十字軍諸国が一人の君主の下に統合されるのを防ぎ、分断された状況を維持することで周辺諸国に対するビザンツ帝国の優位な立場を維持することにあったと述べている[50]
  8. ^ エデッサ伯国自体はザンギー朝を樹立したイマードゥッディーン・ザンギーによって1144年にエデッサ攻略され英語版、すでに消滅していた。このエデッサ陥落の事件は第2回十字軍が派遣される契機となった[59]
  9. ^ サラーフッディーンはもともとはヌールッディーンの家臣だった人物であり[61]、エルサレム王国の侵攻を受けたファーティマ朝の要請に応じてヌールッディーンが派遣した遠征軍(指揮官はサラーフッディーンの叔父のシールクーフが務めていた)に加わる形で1169年にエジプトに入っていた[62]。その後、ファーティマ朝のワズィール(宰相)に就任したシールクーフの死を受けて同年に後任のワズィールとなり[63]、1171年にはファーティマ朝自体を廃してエジプトで事実上独立した[64]。1174年のヌールッディーンの急死はヌールッディーンがサラーフッディーンを討伐するための軍隊を編成していた最中のことであった[65]
  10. ^ このルノーによる海軍の遠征を機に紅海で活動していたユダヤ教徒やキリスト教徒の商人は締め出され、カーリミー商人と呼ばれるイスラーム教徒の商人集団が紅海における貿易活動の主役を担うようになった[111]
  11. ^ オート・クール(haute cour)(別用語で国王宮廷会議(curia regis)とも呼ばれる)は国王主催で封建家臣が参加するエルサレム王国の最高審議機関であったが、その他の審議機関としては、緊急時や非常事態への対応のために広く聖俗の有力者が参加する総会・全体会議(curia generalis/parlement)や諮問会議(consilium/conseil)などがあった[120]

出典

  1. ^ a b c Hamilton 2000, p. 104.
  2. ^ Barber 2012, p. 201.
  3. ^ a b c Runciman 1989, p. 345.
  4. ^ Richard 1989, pp. 410, 416.
  5. ^ Richard 1989, pp. 412–413.
  6. ^ Richard 1989, p. 410.
  7. ^ a b Cotts 2021, p. 43.
  8. ^ a b c d e Barber 2012, p. 206.
  9. ^ Barber 2012, pp. 4–25.
  10. ^ a b Hamilton 2000, p. 98.
  11. ^ a b c Hamilton 1978, p. 98 (note 8).
  12. ^ Barber 2012, pp. 152–153.
  13. ^ Lock 2006, pp. 40, 50.
  14. ^ Runciman 1989, pp. 330–332, 345.
  15. ^ Buck 2017, pp. 77–78.
  16. ^ a b Buck 2017, p. 78.
  17. ^ Buck 2017, p. 228.
  18. ^ a b c Baldwin 1969, p. 540.
  19. ^ Runciman 1989, p. 345 (note 1).
  20. ^ Runciman 1989, pp. 345–346 (note 1).
  21. ^ ジョティシュキー 2013, p. 145.
  22. ^ Buck 2017, pp. 78–79, 116.
  23. ^ Buck 2017, p. 90.
  24. ^ Buck 2017, pp. 88–89.
  25. ^ Buck 2017, p. 42.
  26. ^ Buck 2017, p. 104.
  27. ^ a b c Barber 2012, p. 209.
  28. ^ Buck 2017, pp. 104–105, 107.
  29. ^ Morton 2020, p. 43.
  30. ^ Barber 2012, pp. 83, 169–170.
  31. ^ Morton 2020, pp. 85–86.
  32. ^ a b Runciman 1989, p. 346.
  33. ^ a b Runciman 1989, p. 347.
  34. ^ Morton 2020, p. 130.
  35. ^ a b 根津 1999, p. 204.
  36. ^ a b Baldwin 1969, p. 541.
  37. ^ a b c Runciman 1989, p. 348.
  38. ^ a b Baldwin 1969, p. 542.
  39. ^ Runciman 1989, pp. 327, 349.
  40. ^ a b Runciman 1989, p. 349.
  41. ^ a b Baldwin 1969, p. 543.
  42. ^ a b c Barber 2012, p. 213.
  43. ^ 根津 1999, pp. 203–204.
  44. ^ a b Runciman 1989, p. 352.
  45. ^ 根津 1999, p. 205.
  46. ^ a b c d e Hamilton 1978, p. 98.
  47. ^ 根津 1999, pp. 204–205.
  48. ^ Buck 2017, p. 105.
  49. ^ 根津 1999, pp. 206–207.
  50. ^ 根津 1999, pp. 211–212.
  51. ^ a b Runciman 1989, p. 353.
  52. ^ a b 根津 1999, p. 208.
  53. ^ Runciman 1989, p. 354.
  54. ^ a b c Baldwin 1969, p. 546.
  55. ^ a b Runciman 1989, p. 357.
  56. ^ Barber 2012, p. 214.
  57. ^ Morton 2020, p. 133.
  58. ^ a b Runciman 1989, p. 358.
  59. ^ 太田 2011, pp. 21, 39–40.
  60. ^ a b Runciman 1989, p. 365.
  61. ^ 佐藤 2011, p. 63.
  62. ^ 佐藤 2011, pp. 74–77.
  63. ^ 佐藤 2011, pp. 79–81.
  64. ^ 佐藤 2011, pp. 96–97.
  65. ^ 佐藤 2011, p. 114.
  66. ^ Hamilton 2000, pp. 82, 98, 103.
  67. ^ Runciman 1989, p. 408.
  68. ^ Barber 2012, p. 365.
  69. ^ Hamilton 2000, p. 112.
  70. ^ Hamilton 2000, p. 105.
  71. ^ a b Hamilton 1978, p. 99.
  72. ^ Barber 2012, p. 264.
  73. ^ a b Hamilton 2000, p. 111.
  74. ^ Lock 2006, p. 63.
  75. ^ a b c Hamilton 2000, p. 117.
  76. ^ Hamilton 1978, p. 100 (note 22).
  77. ^ Baldwin 1969, p. 593 (note 2).
  78. ^ a b Barber 2012, p. 268.
  79. ^ Hamilton 2000, p. 118.
  80. ^ Barber 2012, pp. 268–269.
  81. ^ Hamilton 2000, p. 123.
  82. ^ Hamilton 2000, p. 133.
  83. ^ Barber 2012, pp. 270–271.
  84. ^ Hamilton 1978, p. 100 (note 24).
  85. ^ Hamilton 1978, p. 101 (note 25).
  86. ^ Baha ad-Din b. Shaddad 2001, p. 54.
  87. ^ Hamilton 1978, p. 101 (note 26).
  88. ^ a b Barber 2012, p. 275.
  89. ^ Hamilton 1978, p. 101.
  90. ^ Hamilton 1978, p. 101 (note 27).
  91. ^ Barber 2012, p. 277.
  92. ^ Hamilton 1978, p. 101 (note 29).
  93. ^ Barber 2012, p. 276.
  94. ^ Hamilton 1978, p. 103 (note 39).
  95. ^ a b c Runciman 1989, p. 431.
  96. ^ Hamilton 1978, p. 102.
  97. ^ Hamilton 2000, pp. 170–171.
  98. ^ a b Hamilton 2000, p. 171.
  99. ^ Hamilton 2000, pp. 171–172.
  100. ^ Hamilton 1978, p. 103 (note 42).
  101. ^ Lock 2006, pp. 61, 66.
  102. ^ a b Hamilton 1978, p. 103.
  103. ^ Barber 2012, p. 278.
  104. ^ a b c Barber 2012, p. 284.
  105. ^ Hamilton 2000, p. 180.
  106. ^ Mallett 2008, p. 142.
  107. ^ Mallett 2008, pp. 142–143.
  108. ^ a b Runciman 1989, p. 437.
  109. ^ Mallett 2008, p. 143.
  110. ^ Hamilton 2000, p. 181.
  111. ^ 佐藤 2011, pp. 145–146.
  112. ^ Baldwin 1969, p. 599.
  113. ^ Barber 2012, p. 281.
  114. ^ Barber 2012, p. 282.
  115. ^ a b Runciman 1989, p. 440.
  116. ^ Runciman 1989, pp. 440–441.
  117. ^ a b c Runciman 1989, p. 441.
  118. ^ a b c d e f g Hamilton 2000, p. 225.
  119. ^ Barber 2012, p. 289.
  120. ^ 櫻井 2020, pp. 164–165, 198–202, 索引3–4.
  121. ^ Barber 2012, pp. 289–290, 293.
  122. ^ Hamilton 2000, p. 218.
  123. ^ Baldwin 1969, p. 604.
  124. ^ Hamilton 2000, p. 220.
  125. ^ a b Barber 2012, p. 294.
  126. ^ Barber 2012, pp. 294–295.
  127. ^ a b Baldwin 1969, p. 605.
  128. ^ Barber 2012, p. 295.
  129. ^ Hamilton 1978, pp. 107–108.
  130. ^ a b c d e f g Hamilton 1978, p. 107.
  131. ^ Hamilton 1978, pp. 106–107.
  132. ^ a b c d Barber 2012, p. 297.
  133. ^ a b Runciman 1989, p. 450.
  134. ^ 佐藤 2011, pp. 178–179.
  135. ^ Baldwin 1969, p. 606.
  136. ^ Cobb 2016, p. 185.
  137. ^ Ibn al-Athir 2007, pp. 316–317.
  138. ^ Runciman 1989, p. 454.
  139. ^ Hamilton 2000, p. 227.
  140. ^ a b Hamilton 2000, p. 229.
  141. ^ Barber 2012, p. 299.
  142. ^ 佐藤 2011, p. 180.
  143. ^ Baldwin 1969, p. 610.
  144. ^ a b 太田 2011, p. 53.
  145. ^ Barber 2012, p. 300.
  146. ^ Barber 2012, p. 301.
  147. ^ 佐藤 2011, p. 181.
  148. ^ ジョティシュキー 2013, p. 162.
  149. ^ Barber 2012, p. 304.
  150. ^ a b c d Barber 2012, p. 306.
  151. ^ 佐藤 2011, p. 182.
  152. ^ a b c d e Runciman 1989, p. 459.
  153. ^ 佐藤 2011, pp. 182–183.
  154. ^ 佐藤 2011, p. 183.
  155. ^ Cotts 2021, p. 42.
  156. ^ Mallett 2014, p. 72 (note 49).
  157. ^ a b Nicholson 1973, p. 162.
  158. ^ Barber 2012, pp. 306, 423.
  159. ^ Runciman 1989, p. 460.
  160. ^ a b ジョティシュキー 2013, p. 193.
  161. ^ 太田 2011, p. 54.
  162. ^ 太田 2011, p. 55.
  163. ^ Runciman 1989, p. 183, Appendix III (Genealogical tree No. 2).
  164. ^ Runciman 1989, p. 183.
  165. ^ Runciman 1989, p. 199.
  166. ^ Buck 2017, p. 79.
  167. ^ Makk 1994, pp. 47, 91.
  168. ^ a b Makk 1994, p. 47.
  169. ^ Makk 1994, p. 91.
  170. ^ Chiappini 2001, p. 31.
  171. ^ Buck 2017, p. 83.
  172. ^ Hamilton 2000, pp. xviii, 40–41.
  173. ^ Runciman 1989, p. 365, Appendix III (Genealogical tree No. 2).
  174. ^ Runciman 1989, p. 413.
  175. ^ Runciman 1989, p. 335 (note 1), Appendix III (Genealogical tree No. 4).
  176. ^ a b Hamilton 2000, p. 90.
  177. ^ Runciman 1989, p. 441 (note 1).
  178. ^ a b Hamilton 2000, p. 92.
  179. ^ Baldwin 1969, p. 592 (note 592).
  180. ^ a b c Hamilton 1978, p. 97.
  181. ^ Baha ad-Din b. Shaddad 2001, p. 37.
  182. ^ Barber 2012, pp. 306, 423, 435.
  183. ^ Hamilton 1978, p. 97 (note 1).
  184. ^ a b Mallett 2008, p. 141.
  185. ^ Cobb 2016, pp. xx, 185.
  186. ^ Hamilton 1978, pp. 102, 104–106.
  187. ^ Cobb 2016, p. 306 (note 31).
  188. ^ ジョティシュキー 2013, p. 161.
  189. ^ Gabriele 2018, p. 613.
  190. ^ Liu 2017, p. 89.





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ルノー・ド・シャティヨン」の関連用語

ルノー・ド・シャティヨンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ルノー・ド・シャティヨンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのルノー・ド・シャティヨン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS