ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/30 02:25 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト Juliane Henriette Ulrike von Sachsen-Coburg-Saalfeld | |
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![]() 結婚直後(1795~6年頃)に描かれたアンナ・フョードロヴナ大公妃の肖像画。エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン筆。 | |
出生 |
1781年9月23日 |
死去 |
1860年8月1日(78歳没) |
配偶者 | コンスタンチン・パヴロヴィチ大公 |
子女 |
エドゥアルト(庶子) ルイーズ(庶子) |
父親 | ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ |
母親 | アウグステ・ロイス・ツー・エーベルスドルフ |
生涯
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツとロイス=エーベルスドルフ伯女アウグステの三女としてコーブルクに生まれた。弟にザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世、フェルディナント(ポルトガル王配フェルナンド2世の父)、ベルギー国王レオポルド1世、妹にケント公夫人ヴィクトリア(イギリス女王ヴィクトリアの母)がいる。
コンスタンチン大公の花嫁探しをしていた女帝エカチェリーナ2世に選ばれ、わずか15歳で1796年に結婚。その9ヶ月後に女帝は亡くなった。
結婚生活は不幸だった。コンスタンチンは17歳で、粗野で子供っぽく、若い妻を惨めにさせるばかりだった。3年後の1799年、耐えられなくなったユリアーネは突然コーブルクへ帰った。間もなくロシアへ戻り、コンスタンチンと関係を修復しようとするが、うまくいかなかった。1801年、ユリアーネは浅はかな情事を起こしてコーブルクへ向かい、二度とロシアへ戻らなかった。
1808年10月、ユリアーネはエドゥアルトという男児を出産した。父親はフランスの下級貴族だった。1812年からスイスのベルンに移ったユリアーネは、第2子ルイーズを出産した。父親はユリアーネの警護をしていたスイス人だった。
1814年、コンスタンチン大公がユリアーネを連れ戻すべくロシアからやってきたが、彼女は拒絶した。その年、ユリアーネはベルンの近郊エルフェナウに領地を手に入れ、ここで残りの人生を過ごすことになった。
1820年に、19年の別居を経て、コンスタンチンとの結婚が無効になった。
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- 1 ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトとは
- 2 ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトの概要
固有名詞の分類
ロシア皇族の妃 |
エリザヴェータ・フョードロヴナ オリガ・フョードロヴナ ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト マリア・ゲオルギエヴナ ミリツァ・ニコラエヴナ |
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト家 |
ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド アントイネッテ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト |
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