マリアナ沖海戦 背景

マリアナ沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/22 07:32 UTC 版)

背景

あ号作戦

日本軍は当初の目論見であった太平洋戦争の短期決着に失敗し、すでに多くの戦力を失っていた。そのため、1943年中期から日本海軍は戦力を極力温存して、基地航空部隊、空母航空部隊の再編、充実を図り、アメリカ軍侵攻の中心をマーシャル諸島方面と想定し、そこで総力をもってアメリカ空母機動部隊を迎撃、撃滅するとした「Z号作戦」を計画していた。しかし「ろ号作戦」にその予定の戦力が投入されたため、計画を変更せざるを得なくなり、決戦想定場所をマリアナ諸島もしくはカロリン諸島に変更し、これを「新Z号作戦」と名づけた。

1943年9月30日、絶対国防圏の設定を発令[1]。アメリカ軍は中部太平洋での攻勢を本格化させ、11月にはギルバート諸島を占領(タラワの戦いマキンの戦い)、1944年2月にはトラック泊地を空襲するとマーシャル諸島を占領した(クェゼリンの戦いエニウェトクの戦い)。さらに3月にはパラオ大空襲で日本の在泊艦艇および基地施設に多大な損害を与え、4月にはニューギニア島ホーランジア、アイタペに上陸した。この状況を受けて、日本軍はアメリカ軍の決戦想定方面への侵攻は5月から6月に行われるものと判断した。

1944年3月31日パラオ大空襲の際、「あ号作戦」の元になる「新Z号作戦」計画書など最重要軍事機密がアメリカ軍の手に渡るという、いわゆる海軍乙事件が起こった。アメリカ軍は把握した日本海軍の兵力、航空機や艦船の数、補給能力等の重要情報をもとに約1ヶ月をかけて作戦を練り上げた。日本海軍は「新Z号作戦」計画書がアメリカ軍に渡った事を知らなかったため、作戦名を「あ号作戦」と改めるなど多少の作戦変更しか行わなかった。あ号作戦の「あ」はアメリカの頭文字に由来する。作戦は第一想定正面であるパラオ近海において防衛を行うこととした。そのためにグアムサイパンテニアンの兵力を強化して敵をパラオ方面へ誘い込み、空母機動部隊である第一機動艦隊第一航空艦隊を主力とする基地航空隊によって撃破するという作戦を立てた。

あ号作戦の立案は、連合艦隊司令部の作戦参謀長井純隆、航空参謀淵田美津雄、潜水艦参謀渋谷龍穉、情報参謀中島親孝が中心となって軍令部と連絡を取って行った。4月14日、15日、21日、22日に軍令部との打ち合わせがあった。4月24日、連合艦隊で参謀長以下で連合艦隊作戦計画を作成した[2]。1944年5月3日、大本営は「あ」号作戦に関する総長指示を発令。同日連合艦隊司令長官に豊田副武大将が親補され、連合艦隊は「あ」号作戦命令を発令した[3]

問題は、アメリカの侵攻正面の予想であった。決戦海面としては小笠原諸島、マリアナ諸島、西カロリンを考えていたが、敵情判断、また現状のタンカー保有量不足のため蘭印の油田地帯から近場が日本軍にとって望ましく「西カロリン」を想定した[4]。あ号作戦の計画方針では決戦方面にマリアナも含まれていたが、ほぼ考慮はされていなかった。軍令部第一部長中澤佑によれば「マリアナにいずれは来るであろうが、六月に来るとは思っていなかった。これに対し西カロリン、ニューギニアには逐次連携しながら来攻する、マリアナは比島作戦が大体目鼻がついてからと考えていた。六艦隊司令部も敵がマリアナに来ると判断しておれば、サイパンに進出しなかったと思う」という。軍令部作戦課長山本親雄によれば「マリアナには全然来ないとは思わなかったが、あれほど早く来るとは考えていなかった。マリアナには陸軍兵力が入り、相当自信があるのでまず大丈夫と考えていた」という。軍令部航空部員源田実によれば「あ号作戦計画においては、敵のマリアナ攻略はほとんど考えていない。敵の来攻方向は比島を目標とする西部ニューギニアと西カロリンであり、マッカーサーニミッツの兵力が同時に別の方向に来攻するとは考えず、ニミッツの艦隊はマッカーサーの攻略部隊に応じるであろうと判断していた」という[5]。陸軍は松輸送による増援部隊派遣の成功でマリアナにおける防衛に強い自信をもって回答しており、この方面の作戦計画をした主務参謀晴気誠は海軍に対して、たとえ海軍航空が無くなっても第43師団が到着したから敵を絶対に叩き出せるという説明を行った[6]

また、連合艦隊はマリアナに敵が来攻した場合の処置に関して、基地航空部隊の「第三集中配備」として対応策を定めているが、その他では作戦方針に示しているだけで水上部隊の作戦では全然触れられていなかった[7]。連合艦隊作戦参謀長井純隆大佐は「あ号作戦計画を作成した当時タンカー問題は未解決で、敵マリアナ来攻の場合わが機動部隊は同方面に進出不可能であった。その後発令直前にタンカー問題が解決し作戦命令を訂正すべきであった。基地航空部隊作戦担当参謀は訂正したが他は訂正することなくして終わった」という。連合艦隊参謀長草鹿龍之介は「敵がサイパンに来攻した場合は、同地をしっかり確保している間にゆっくり準備を整え作戦できるように考えていた」という。連合艦隊先任参謀高田利種は「命令の変更を出したかどうか記憶していないが訂正を必要としなかったのではないか。実際の場合は、タンカーの解決で機動部隊の作戦限度線(マリアナ列島付近)を定めてあり、これで機動部隊の作戦を適宜指導するつもりであった」という[8]

一方、軍令部五課(米大陸情報課)部員実松譲によれば、「当時五課の判断は通信情報だけでなく諸種の状況から判断しており、特に参考になったのは捕虜訊問で、それによって敵の作戦の習性を調べていた。敵機の来襲状況と月日の関係を図表にしてみると、おおむねその準備状況が判明した。またアメリカ軍のやり方と記念日との関速、主将の性格特にその発表のやり方(マッカーサーは政治的、ニミッツは正直)等を参考としている。昭和19年2月23日のマリアナ空襲時にアメリカはリンカーンデーのプレゼントと発表した、これを聞き、直感的に次はマリアナではないかと考えた。四月に入り高高度偵察に来たのでこの考え方は強くなった。更に五月に入ると来襲回数も増し、低高度の偵察があり(アメリカ軍はこの後潜水艦によって日本軍の陣地を調べ、最後に潜水艦で海上偵察を使うのが常である)その後通商破壊に関係のない潜水艦の出現によりマリアナ来攻を確信するに至った。当時軍令部の作戦課は通信情報を重視して五課の判断をほとんど聞き入れなかった」という。連合艦隊の中島親孝情報参謀によれば「マーシャル来攻時の通信状況によってニミッツの攻略に対する実力を知り、古賀長官時代の連合艦隊司令部はアメリカ軍が二本槍で侵攻して来ると考えていた。しかし、四月以後の新連合艦隊司令部は中央の判断に基づいており、自分とは状況判断が異なっていた。通信上はニミッツの線が非常に高まり、北方に偽電があるころビアクに来攻、通信上はニミッツと全然関連がないので、攻勢はパラオではなくカロリンの線より北側との判断がはっきりした」という。しかし、大本営では五月下旬の五課の判断以外はマリアナを考えておらず、連合艦隊司令部でも中島が五月末のビアク来攻でマリアナと判断した以外は決戦方面は南寄りと判断していた[9]

日本海軍は、敵艦隊を予定作戦海域の西カロリンに誘導する方策として、基地航空部隊を秘匿・集中して敵に戦力を下算させること、特令で一部兵力をウルシー・パラオに進出待機させ誘出すること、機動部隊主力のフィリピン南からの進出を秘匿することを計画していた[7]

日本側の航空攻撃計画は、機動部隊は敵機動部隊へ先制攻撃のちアウトレンジ戦法で反復攻撃、戦闘爆撃機で空母を封殺し、次に本攻撃に移る。黎明を狙ったのち、昼間にアウトレンジ戦法だけで攻撃を行う。基地航空部隊には索敵を期待しており、哨戒圏を利用して接敵し、翼側から攻撃、協力困難なら縦深配備とするというものだった[10]。航空参謀田中正臣は「小澤長官が強調された戦法で400浬~450浬から発艦し、全速力で敵方に突き込み飛行機隊を収容して反復攻撃を行う方法である。この遠距離からの攻撃が可能であるかどうか検討され、新機種(彗星天山)ならば可能であるとの結論になった。この戦法は当然の策であり、この戦法でなければ勝算はないものと考えていた」という[11]

また、停泊した米機動部隊を特四式内火艇で奇襲する竜巻作戦をあ号作戦に伴って実行する案もあり、4月26日本作戦について中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将は情勢に適応しないとの理由で反対を表明しているが、連合艦隊司令部は既定の計画に従って5月3日「あ」号作戦命令の一部として発令した。しかし、特四式内火艇にエンジンの轟音、低速、キャタピラが小石で破損するなど性能上の欠陥があることが分かり、5月12日本作戦の実施は不可能と判断し、中止された[12]

準備

5月16日、リンガ泊地にあった小沢治三郎中将麾下の第一機動艦隊は、予定戦場に近いタウィタウィ泊地へ進出した。タウィタウィで訓練の仕上げを行う計画であったが、日本側の行動を予期していたアメリカ潜水艦多数が待ち伏せていたため、泊地外での空母の訓練行動は危険でできなくなってしまった。タウィタウィ泊地は狭いうえ、赤道に近く無風状態であるため、泊地内では航空機の発着訓練は困難だった。対潜掃討のために駆逐艦が出撃したが、当時周辺海域を哨戒していた潜水艦ハーダーヘイク2隻の攻撃で逆に4隻が撃沈された。

日本駆逐艦の損害
日時 艦名 沈没地点 ほか
6月6日 水無月 ダバオ南東海上 出撃直後に発見したハーダー攻撃に向かい戦没
6月7日 早波 タウイタウイ泊地沖 水無月捜索中にハーダーの反撃を受け戦没
6月8日 風雲 ダバオ湾口 第五戦隊を護衛中にヘイグの攻撃を受け戦没
6月9日 谷風 タウイタウイ湾口 対潜哨戒中にハーダーの攻撃を受け戦没

このため十分な洋上訓練が行えず、航空機搭乗員の練度不足はあ号作戦に影響を及ぼした。泊地周辺に展開したアメリカ潜水艦は日本艦隊にとって貴重な給油艦をも襲い、そのうちの2隻を撃沈した[13]

5月20日、豊田副武連合艦隊司令長官は「あ号作戦」開始を発令した。同日、小沢治三郎中将は旗艦「大鳳」で訓辞を行った。

  1. 今次の艦隊決戦に当たっては、我が方の損害を省みず、戦闘を続行する。
  2. 大局上必要と認めた時は、一部の部隊を犠牲としこれを死地に投じても、作戦を強行する。
  3. 旗艦の事故、その他通信連絡思わしからざるときは、各級司令官は宜しく独断専行すべきである。
  4. もし、今次の決戦でその目的を達成出来なければ、たとえ水上艦艇が残ったにしても、その存在の意義はない。

ただし、三番目の訓示に関して、艦載機搭乗員の中には、その様な訓辞は聞いてもいないし、知りもしないと証言している者もいる[14]

日本海軍は、アメリカ艦隊の行動を探るため、多数の潜水艦をアドミラルティ諸島北方の「ナ散開線」などアメリカ艦隊の予想進路上に、散開線配備した。ところが、これらの日本潜水艦は、同様の任務に就いていたアメリカ潜水艦と異なって戦果を上げることができず、逆にアメリカの対潜掃討艦艇に発見されて呂百型潜水艦多数などを撃沈されてしまった[15]

渾作戦

5月27日、アメリカ陸軍を主体とした連合軍は西部ニューギニア沖合のビアク島へ上陸を開始した。本来、この方面は絶対国防圏からも外れ、作戦命令方針にも一致していなかったが、連合艦隊は独自の判断で、この方面の迎撃に決戦兵力の第三攻撃集団を投入した[16]。マリアナ方面に備えていた第一航空艦隊のうちヤップ所在の約90機がビアク支援に転用され、29日に連合艦隊は大本営に対して渾作戦が提案され承認後、さらに連合艦隊はマリアナ方面に配備されていた第二攻撃集団をハルマヘラ島方面に移動させた[17]

連合艦隊の多田篤次航空参謀は、「当時連合艦隊司令部では豪北についてはほとんど考えておらず、また「あ」号作戦自体も自主的にわが希望する決戦海面に導入する方策が欠けていた。私は敵がビアクに来た時第一機動艦隊をもってこれに対応すべきであると主張し、先任参謀と激論した。その理由は1.第一機動艦隊はタウイタウイで訓練もできず海上機動戦の練度不足である。2.ビアクに対応することにより敵を刺激して誘致の目的にかなう、すなわち従来の敵のやり方からみて有力部隊をもって対応しなければ深くわが希望海面に入って来ないということである」と語っている。連合艦隊情報参謀中島親孝によれば「豊田艦隊司令部では豪北方面に対する関心がほとんどなく、ビアクに対しても認識は十分とはいえなかった。ところが現実にビアク島に上陸され、だれかが急に騒ぎ出して「ビアクには飛行場適地が多く大基地群ができる」ということで、一部航空兵力を増強するに至ったものであろう。私の印象では一航艦兵力の投入も、渾作戦も共にビアク確保が主目的で、これは当時何回も聞いており「ビアクを取られたら大変だ」ということである」という[18]

もともと海軍はトラック、ビアク、メレオンを絶対防衛線から外すことを事前に決め、陸軍にも伝えていた[19]。しかし、連合艦隊が決戦兵力を動かし渾作戦を要求したので、軍令部もそれを承認し、陸軍もそれを許諾してしまった。軍令部第一部長中沢佑によれば「渾作戦の目的はビアク島確保が第一であり、敵機動部隊を誘致し決戦を生起させるチャンスもあると考えていたが、その後の経過は次第に後者の方を重視する傾向が強くなってきた」という[20]

日本海軍は、決戦方面は依然マリアナと考えていた一方で、従来の「あ」号作戦計画にとらわれたこと、及び渾作戦の進展に伴いビアク方面への関心が強くなったことから、ニミッツがニューギニア作戦に協力するか、またはマッカーサー作戦と策応して西カロリンを攻略してくるという見方が強くなっていた[21]

アメリカ軍サイパンへ侵攻

6月11日、サイパン上陸に先立って日本軍の航空戦力を叩くべく、スプルーアンスの本隊より先行していた第58任務部隊司令官マーク・ミッチャー中将がマリアナの日本軍基地の攻撃を命じた。ミッチャーは奇襲とするため、いつもと攻撃方法を変更することとし、早朝ではなく午後13時にマリアナの日本軍各飛行基地を延べ1,100機の艦載機で空襲した[22]。日本海軍航空隊は渾作戦で、マリアナの第1航空艦隊第61航空戦隊可動350機の約半数も作戦への投入を決めて、真珠湾攻撃からのエース・パイロットである第261海軍航空隊飛行隊長指宿正信大尉らがインドネシアモルッカ諸島にあるハルマヘラ島に飛び立っており、このミッチャーの奇襲に対抗できたのは100機足らずであった[23]。さらにミッチャーの思惑通り、奇襲効果もあって日本軍は満足に迎撃もできず、邀撃戦は分散且つ少数機で行われ[24]、第一航空艦隊司令官角田覚治中将がいたテニアン島ですら、第301海軍航空隊戦闘316飛行隊の「零戦52型」10機が迎撃するのがやっとであったが、来襲してきたのが新鋭艦載戦闘機「F6Fヘルキャット」であったうえに[25]、戦闘316飛行隊は飛行隊長の美濃部正少佐が空戦の訓練を全く行わせていなかったなど[26]、そもそも、空戦技術が殆どなかったため[注釈 1]、一方的に撃墜されて全滅するなど、この後の「マリアナの七面鳥撃ち」を予感させるような一方的な戦いとなり[25]、第58任務部隊は日本軍機100機の撃墜撃破を報告しているのに対して「F6Fヘルキャット」の損失は対空砲火によるものも含めてわずか11機であった[28]

6月12日にはグアムから、前日は空襲中に空中退避して無事であった陸上攻撃機「銀河」7機が、第58任務部隊に夜間雷撃を敢行したが戦果はなく、前日に引き続き、延べ1,400機の艦載機が、今度は未明の午前2時40分から午前7時30分にかけてマリアナの各島に来襲した。昨日の空襲で殆どの戦力を失っていた日本軍も、テニアンから艦上爆撃機「彗星」5機を第58任務部隊を攻撃に出撃させ、グアムからは「零戦」13機が迎撃に上がったが、前日と同様に一方的な戦いで帰還できたのは「零戦」1機のみとなった[24]。第58任務部隊の戦果報告も撃墜破22機と控えめなものとなり、この日をもってマリアナの日本軍航空戦力は壊滅し[29]、アメリカ軍艦隊を地上の基地航空隊と機動部隊で挟撃しようという「あ号作戦」の計画は実現困難となってしまった[30]

マリアナへの大規模空襲開始を受け、連合艦隊司令部は敵にマリアナ攻略の企図があるという見方を強くする。大本営は機動空襲のみで攻略企図はないと考えていたが、連合艦隊は6月11日に第二攻撃集団をヤップに戻し、13日に「あ号作戦決戦用意」を発令、渾作戦を中止した[31]。連合艦隊の中島親孝情報参謀は「ビアク来攻時、マッカーサーの部隊とニミッツの部隊と通信上全然関連がないので、近くニミッツによる攻略作戦がカロリン諸島より北方に行われるであろうと判断していた。その後一時北方の通信状況が活発となり小笠原諸島など北寄りに来攻するのではないかとの判断もあったが、六月十日ごろにはこの兆候もなくなり、マリアナとの判断になった。そして十一日米機動部隊の来襲により、いよいよマリアナ攻略に来たぞと判断した。当初は司令部の作戦担当者は必ずしも私の判断を全幅信用していなかったため渾作戦の処置から見れば矛盾はあるが、十一日には私の判断を司令部は信頼して長井作戦参謀が決戦用意の発令について軍令部と何回も電話連絡していたのを記憶している」という[32]。軍令部課長山本親雄によれば「軍令部は単なる機動空襲との判断が強く、燃料の関係から慎重に対処するべきであると考えていた。十三日連合艦隊司令部が決戦用意を発令した時も軍令部はなお懐疑的であった」という[32]。決戦用意発令は連合艦隊司令部の強行であり、軍令部は燃料の問題から慎重で賛成ではなかった[33]

決戦用意の発令前に第一機動艦隊はすでにギマラス泊地への前進を決めていたが、渾作戦も中止となったことで渾作戦参加部隊も機動艦隊と合流するよう指示された。日本艦隊が集結する一方、艦隊に協力すべき基地航空隊は、ビアク救援作戦に振り回されて消耗しており、すでにマリアナ所在の戦力はほぼ壊滅状態になっていた。第一航空艦隊はビアク・ハルマヘラ方面に転進した部隊をヤップやグアムへ戻したものの、転進先での戦闘のほか、搭乗員のマラリアデング熱感染、頻繁な移動に伴う事故などで戦力は大きく低下していた。なお、ビアク守備隊は孤立しつつも勇戦して抵抗を続け、アメリカ上陸軍がビアク島の諸飛行場を制圧して陸軍航空戦力を展開できるようになったのは本海戦の終了後であった。

6月15日、アメリカ軍はサイパン島へ上陸を開始する。同日、豊田長官もあ号作戦発動を命令した。


注釈

  1. ^ この訓練方法が問題となり、美濃部は第301海軍航空隊司令八木勝利中佐から飛行隊長を更迭されている[27]
  2. ^ ミッドウェー海戦の際にはわずか7機であったものを、戦訓により索敵力を強化したものである。
  3. ^ 21型に現地改修で懸吊架装備をつけて戦闘爆撃機としたタイプであり、後年量産された62型(52丙型の胴体下に250kg爆弾の懸吊架装備をつけた戦闘爆撃機型)とは別機体
  4. ^ 『いざゆけ!ゼロ戦 最強の戦闘機、激闘の伝説 スーパー戦闘機で知る太平洋戦争 ゼロ戦は無敵だった!』(KKベストセラーズ、2007年)230頁によると、「8時20分、前衛部隊の戦艦大和の艦橋で第1次攻撃隊127機が高度4000メートルで前衛部隊に近づいてくるのを発見したが、無線封鎖中の前衛部隊ではこの100機を超える編隊が敵か味方か、判別できなかった。日本海軍では飛行機は味方軍艦上空を飛ばないことになっており、重巡洋艦高雄が味方識別合図を要求するため高角砲4発射ち上げたが、編隊は無反応のまま艦隊の真上に向かって距離1万5千メートルまで接近。大和は敵編隊とみなして全艦に左45°一斉回頭と対空射撃の緊急命令を出し、各艦は回頭と発砲を始めた。日本機編隊は慌てて翼をバンクさせて味方だと知らせたのだが、4機も被弾して落ちていった。」
  5. ^ 1航戦若しくは2航戦所属機を収容したと思われる
  6. ^ 各空母への振り分けは次の通り。大鳳:零戦五二型20機、彗星一一型10機、九九式艦爆8機、天山一二型13機、二式艦偵3機。翔鶴:零戦21機、天山12機、彗星18機、二式艦偵10機、九九式艦爆3機。瑞鶴:零戦21機、天山12機、彗星18機、二式艦偵10機、九九式艦爆3機
  7. ^ 但し6月8日風雲沈没時に戦死
  8. ^ 但し6月8日に沈没
  9. ^ 但し6月9日に沈没
  10. ^ 各空母への振り分けは次の通り。隼鷹:零戦27機、彗星9機、九九艦爆9機、天山6機。飛鷹:零戦27機、彗星9機、九九艦爆9機、天山6機。龍鳳:零戦×21機、天山×11機
  11. ^ 6月8日の春雨沈没時に白浜政七駆逐隊司令が戦死し後任は未着任
  12. ^ 但し6月15日に油槽船清洋丸と衝突して沈没
  13. ^ 正式編成は海戦後の8月15日
  14. ^ 各空母への振り分けは次の通り。瑞鳳:零戦21機、天山9機。千歳:零戦21機、九七艦攻9機。千代田:零戦21機、九七艦攻9機
  15. ^ 6月9日に早波が沈没し折田大佐が戦死。15日付で玉波艦長の青木久治大佐が隊司令に赴任
  16. ^ 但し6月9日に沈没
  17. ^ パラオより合流、19日に分離
  18. ^ タウィタウィで対潜掃討中触礁損傷により全力発揮不能、第二補給部隊護衛へ異動となる
  19. ^ 海防艦はギマラスで待機。
  20. ^ 公刊戦史「潜水艦史」による
  21. ^ アイランドの煙突に命中するも、航行に支障無し。
  22. ^ 500ポンド爆弾を艦橋後部のマスト付近に命中したとしているが乗組員の回想では被弾無し、至近弾によるスプリンターを直撃弾と勘違いした可能性有り。
  23. ^ タウイタウイに閉じ込められた原因としては潜水艦の跋扈が上げられる。泊地を出た途端雷撃される事もあり、そのため、護衛の駆逐艦が損耗した。そもそもタウイタウイ島と、その周辺海域は、南シナ海で通商破壊を行なう米潜水艦航路の途中にあった。(しかし、タウイタウイは結局不運な選定であったことを証明した。当時、ニューギニアにおいて入手した、日本側書類によって、新しい日本の航空艦隊の出現とその進出位置が明らかになると、米潜水艦が大挙してセルベス海やフィリピン諸島周辺に集中行動したので、小澤部隊は訓練や演習の為に錨地外に出動することが殆ど出来無くなった。)[70]

出典

  1. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦付録
  2. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦331頁
  3. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦304-305頁
  4. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦336頁
  5. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦323-325頁
  6. ^ 堀栄三『大本営参謀の情報戦記』文春文庫128頁、戦史叢書12マリアナ沖海戦326-327頁
  7. ^ a b 戦史叢書12マリアナ沖海戦353頁
  8. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦354頁
  9. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦324-325頁
  10. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦388-389頁
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  59. ^ a b c d 戦史叢書12マリアナ沖海戦636-638頁
  60. ^ 辻田真佐憲『大本営発表』幻冬舎新書192-194頁
  61. ^ 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫314-315頁
  62. ^ 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫316頁
  63. ^ 『太平洋戦争と十人の提督』学研M文庫頁289-290頁
  64. ^ 『太平洋戦争と十人の提督』(617頁より)
  65. ^ #戦藻録(九版)319頁
  66. ^ #戦藻録(九版)320頁
  67. ^ 『真実の太平洋戦争』『太平洋戦争と十人の提督』より。
  68. ^ 田中健一「マリアナ沖海戦 作戦指導批判に異論あり」『波濤』110号 1994年1月
  69. ^ 『真実の太平洋戦争』(第二章 数多い誤認と誤解 2 夢に終わったアウトレンジ戦法より 157-158頁)
  70. ^ ニミッツの太平洋海戦史 太平洋戦争と潜水艦 269p/372p〜375pより
  71. ^ 『日本はいかに敗れたか 上』より
  72. ^ 神立尚紀『零戦最後の証言2』光人社NF文庫、pp.113f
  73. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦379頁
  74. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦379-380頁
  75. ^ 川崎まなぶ著『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員 激闘の記録』(海軍が新規搭乗員の大量養成・母艦搭乗員の急速錬成に努力を払ったので、本海戦に参加した全母艦搭乗員の平均飛行時間は、開戦時〜南太平洋海戦までと比べて遜色ないレベルであったという指摘だが、飛行時間の計算は在籍年月から推計したもので根拠に欠ける)
  76. ^ 戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期207頁
  77. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦411頁
  78. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦55、78頁
  79. ^ 内藤初穂『戦艦大和へのレクイエム 大艦巨砲の技術を顧みる』(グラフ社、2008)185頁
  80. ^ turkey shootの意味・使い方”. (株)アルク. 2023年6月13日閲覧。
  81. ^ turkey shootの意味”. NTTレゾナント. 2023年6月13日閲覧。
  82. ^ 戦史叢書 41 P.110
  83. ^ a b c モリソン(2003年)、298-299頁。






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