マリアナ沖海戦 戦闘の経過

マリアナ沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/22 07:32 UTC 版)

戦闘の経過

6月18日まで

6月15日、決戦たるあ号作戦の発動を受けて、日本の第一機動艦隊はギマラス泊地を出撃し、翌16日に渾作戦部隊と合流した。この間、6月15日には第一補給部隊において油槽船清洋丸と駆逐艦白露が衝突事故を起こし、白露が沈没した。機動部隊先任参謀大前敏一は小澤長官から、敵艦隊との距離を500浬にもっていくようにいわれたという[34]

日本側の布陣は、囮を兼ねた前衛部隊として戦艦大和、武蔵、金剛、榛名と空母千歳千代田瑞鳳を中心とした栗田中将指揮下の艦隊を配し、その後ろ100浬に主力本隊として、空母大鳳翔鶴瑞鶴を擁する甲部隊と空母隼鷹飛鷹龍鳳を擁する乙部隊を置き、主力本隊は攻撃機の航続距離の大きさを利して、敵空母機の行動範囲外からアウトレンジで攻撃するという作戦であった。

アメリカ艦隊は、6月15日のうちには日本艦隊の出撃を知っていた。潜水艦フライングフィッシュサンベルナルディノ海峡を通過する日本艦隊を発見して報告し、同じくシーホースも16日にスリガオ海峡沖を北上する日本艦隊を追尾していた[35]。17日、スプルーアンスは、第58任務部隊に対し、敵空母の撃破を第一の目的とする指示をだした[36]。しかしその後、アメリカ艦隊は日本の機動部隊の所在を見失った。スプルーアンスは日本艦隊が攻略船団だけを狙った一撃離脱を試みることをおそれながらも、東方への航行を続けた[37]

6月18日、小沢機動部隊は40機以上にのぼる索敵機を発進させ、三段索敵を行った[注釈 2][38]。昼過ぎ、前衛艦隊の索敵機が3群で編成された米機動部隊を発見[39]。前衛部隊の軽空母から攻撃隊が発進した[40]。ところがこれは夜間攻撃、夜間着艦となると、機動部隊司令部は攻撃中止の命令を下した[39]。攻撃隊は爆弾を捨てて帰艦したが[41]、未熟練の攻撃隊は満足に着艦出来ず、数機が事故で失われた[40]。旗艦大鳳の艦橋は重苦しい空気に包まれた[41]

この間、日本の基地航空隊は残存戦力を集めてアメリカ艦隊に対する反撃を実施していた。6月15日にはトラックから天山11機、ヤップから第一次攻撃隊零戦9機、彗星3機。第二次攻撃隊として零戦5機、銀河10機が出撃するが、戦果なし。損害は15機未帰還。6月16日にはグアムから天山6機出撃するが、戦果なしで全機帰還。6月17日、ヤップから零戦31機、彗星19機が出撃し護衛空母ファンショー・ベイを小破・揚陸艦1隻小破という戦果をあげるも、24機喪失。22機がグアムに着陸し、残4機は不明。トラックから天山5機出撃し、揚陸艦1隻を撃沈するも1機未帰還となった。18日、ヤップから59機が出撃しタンカー2隻を小破させるも22機を失う。残り37機はグアムに着陸した。

6月19日

戦闘機雲を眺める第58任務部隊の兵士。
空母バンカーヒルに急降下爆撃を行う日本の爆撃機(1944年6月19日)。

6月19日朝、依然として日本艦隊を発見できないアメリカ機動部隊は、グアム島の日本軍基地航空隊の殲滅を先に進めた。グアムには前日までにヤップから移動してきた日本の基地航空部隊が展開していた。午前8時30分ころからの激しい空中戦の末、グアム上空の制空権はアメリカ軍が掌握した。これは、その後、日本機動部隊のグアム基地を利用した攻撃計画を狂わせる効果を生んだ[37]。日本側は、6月19日にグアムから爆戦3機が反撃に出撃したが戦果はなかった。

一方、小沢機動部隊は早朝3時30分から頻繁に索敵機を発進させ敵機動部隊の捜索を開始した。6時半頃、サイパン島西部にアメリカ機動部隊を発見。日本の機動部隊は攻撃隊を出撃させた。

7時25分に前衛の空母千歳千代田瑞鳳から64機(零戦14機、爆装零戦[注釈 3]43機、天山7機)と、7時45分にその後方に位置する主力の甲部隊(空母大鳳翔鶴瑞鶴)から128機(零戦48機、彗星53機、天山29機)の第一次、第二次攻撃隊を発進させた。7時40分、甲部隊の攻撃隊が味方の前衛艦隊上空を通過したがこの時、これを米軍機と誤認した前衛艦隊の誤射を受け3機が撃墜された[注釈 4][42]

2つの攻撃隊は、2時間から3時間という長時間をかけて米第58任務部隊に接近していった。第一次攻撃隊は9時35分にアメリカ艦隊への攻撃を開始したが、レーダーで日本海軍攻撃隊の接近は既に探知されており、攻撃隊をまだ出せずにいた米機動部隊は戦闘機のほとんどをこれへの迎撃にあてることができ、またはVT信管弾を伴った対空砲火により、日本軍の攻撃隊は全体の2/3にあたる41機(零戦8機、零戦爆戦31機、天山2機)を失った。第一次攻撃隊は戦艦と重巡をそれぞれ1隻ずつ小破させたのみであった。10時45分にアメリカ艦隊への攻撃を開始した第二次攻撃隊も、戦艦サウスダコタ、空母バンカーヒル重巡洋艦ミネアポリスを小破させただけに留まり、全体の3/4以上にあたる99機(零戦33機、彗星43機、天山23機)もの航空機を失った。

9時15分、乙部隊(空母隼鷹飛鷹龍鳳)から第二波の第三次攻撃隊49機(零戦17機、零戦爆戦25機、天山7機)が発進するが、別働隊と誘導機が進路(目標)変更の受信を逃した上、本隊も米第58任務部隊を発見できずに引き返し、7機(零戦1機、零戦爆戦5機、天山1機)が未帰還となった。10時15分には第四次攻撃隊50機(零戦20機、九九式艦爆27機、天山3機)が発進した[43]。第四次攻撃隊は米艦隊を発見できなかった。攻撃後にグアム島ロタ島経由でヤップ島へ向かうように指示されていたため、グアム島に向かったところ、付近で戦闘機の迎撃を受け26機(零戦14機、九九式艦爆9機、天山3機)が撃墜された[44]阿部善次大尉の彗星隊はグアム島で燃料補給を受け、翌日隼鷹へ帰艦するよう命じられている[45]。10時45分、彗星9機・零戦6機が発進したが発進直後に彗星2機・零戦1機が故障で引き返し、さらに索敵中に彗星1機・零戦3機が行方不明となった[46]。この隊は偶然アメリカ軍機動部隊を発見したが、ヘルキャットの迎撃にあい、阿部は1時間ほどヘルキャットに追跡されたのち、ロタ島へ不時着した[47]

ところが、甲部隊が攻撃隊を発進させた直後の8時10分、旗艦大鳳がアメリカの潜水艦アルバコアの魚雷攻撃を受け、発射された6本の魚雷のうち1本が命中した。損傷そのものは軽微(前部エレベーターの陥没)であったため、応急修理の後、10時28分に大鳳、翔鶴、瑞鶴から第五次攻撃隊18機(零戦4機、零戦爆戦10機、天山4機)が発進したものの、米第58任務部隊を発見できずほとんどが引き返し一部は不時着、9機(零戦爆戦8機、天山1機)が未帰還となった。10時30分、乙部隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)から第六次攻撃隊15機(零戦6機、彗星9機)が発進し、本隊8機が13時40分頃に米艦隊を発見、空母を目標に攻撃した。しかし、全く戦果を上げられず9機(零戦4機、彗星5機)が撃墜された。第六次攻撃隊の彗星隊と第四次攻撃隊の九九艦爆隊の共同攻撃を企図したという証言はあるが、連絡や指示された証拠はない。

11時20分には、日本機動部隊に接近したアメリカの潜水艦カヴァラが空母翔鶴に魚雷を命中させた。翔鶴も致命的な損傷を受け、14時10分に沈没した。14時32分、大鳳が帰艦してきた攻撃隊の収容を始めようとしたとき突如大爆発を起こし、16時28分に沈没した。大鳳のこの大爆発の原因は、魚雷のダメージにより航空燃料が格納庫内に気化しながら広がり、それが艦載機の着艦の衝撃で引火、爆発したものと推定されている。大鳳の爆発のため、小沢中将は旗艦を重巡羽黒に移した。

17時10分、日本機動部隊は虎の子の正規空母を2隻も失い、送り出した攻撃隊の大半が未帰還となったことから小沢中将は立て直しのために北上を命じた。日本機動部隊はそれまでに6次にわたる攻撃隊を送りだしたが、どの部隊も敵の迎撃と行方不明によってそのほとんどを失った。小沢艦隊司令部が把握していた残余機数は以下の通りである。

20日実働可能機数[48]
戦隊 戦闘機 爆撃機 攻撃機  偵察機  合計
第一航空戦隊 零式艦戦52型15機
零式艦戦21型2機
彗星艦爆1機
99式艦爆2機
天山艦攻7機 二式艦偵5機 32機
第ニ航空戦隊 零式艦戦19機 爆装零戦19機 天山艦攻8機 46機
第三航空戦隊 零式艦戦6機 爆装零戦7機 97式艦攻6機 19機


一方のアメリカ艦隊は被害らしい被害を受けずに、空戦で29機の戦闘機を損失しただけに留まった。一連の動きとは別に18時07分、第五一潜水隊所属呂115が爆雷攻撃に耐えつつワスプ型米空母[49]に対し搭載すべての魚雷4本を発射したが[50]、命中を確認できなかった。深夜、後方で待機していた日本の補給部隊に給油のため前線へ進出せよとの命令が下った[51]

6月20日

アメリカ軍の対空砲火によって撃墜された日本軍の機体。
夕日を浴びる中、対空砲火を上げながら回避行動をとる前衛部隊。右側中央に金剛型戦艦、左側には高雄型重巡洋艦と駆逐艦2隻が見える。

小沢艦隊は翌6月20日、夜明け前の4時40分から索敵機を発進させたが、米機動部隊を発見することはできなかった。12時、小沢中将は旗艦を羽黒から瑞鶴に移した。13時20分過ぎ、敵の空襲警報を受け、小沢艦隊は補給部隊からの給油を中止して撤退を開始。この日の補給部隊の戦闘詳報に、緊急離脱していく小沢艦隊を見て「何があった?」と船団内でやり取りした通信記録が残っており、この時艦隊司令部は補給部隊に対し敵攻撃部隊の接近を伝えないまま離脱した事が判っている。補給部隊は敵襲が近いことを察知して艦隊に後続したが、低速の油槽船とその護衛駆逐艦からなる船団では付いて行けず置き去りとなった。補給部隊に退避命令が届いたのは空襲警報から2時間後の15時45分だった[52]

アメリカ軍の第58任務部隊は15時40分にようやく日本機動部隊を発見した。マーク・ミッチャー中将は日本機動部隊までの距離が米艦載機の航続可能範囲の限界付近であることや、帰艦が夜になってしまうことを覚悟の上で216機(F6F戦闘機85機、SB2C急降下爆撃機51機、SBD急降下爆撃機26機、TBF雷撃機54機)の攻撃隊を出撃させた。17時30分にこれが日本艦隊上空に来襲。零戦が迎撃にあたったが23機が撃墜され、空母飛鷹が沈没し、他の空母瑞鶴、隼鷹千代田も損傷した。逃げ遅れた補給部隊の給油艦2隻も航行不能となり、自沈処分された。アメリカ攻撃隊は20機が撃墜され、ほかに80機が燃料切れの不時着や夜間着艦の失敗で失われた。

空襲を受ける前の16時15分には日本軍側も米艦隊を発見しており、17時25分に甲部隊唯一生き残った空母瑞鶴から7機の雷撃機を発進させたが、この薄暮の攻撃隊は3機未帰還・4機不時着で戦果なしの全損に終わった。20日の戦闘終了時点で、第一機動艦隊の保有艦載機数は以下の通りとなった。

21日実働可能機数[53]
戦隊 戦闘機 爆撃機 攻撃機  偵察機  合計
第一航空戦隊 零式艦戦(型式記載なし)4機 彗星艦爆1機
99式艦爆1機
天山艦攻1機 なし 7機
第ニ航空戦隊 零式艦戦11機 爆装零戦5機 天山艦攻1機 なし 17機
第三航空戦隊 零式艦戦2機 爆装零戦3機 97式艦攻4機
天山艦攻2機[注釈 5]
なし 11機

前衛の栗田中将には夜戦のための東進が命じられ、残存空母部隊も、上記の空襲を受けた後、それに後続したが、小型艦艇の燃料は尽きようとしていた[54]。19時40分頃、連合艦隊長官豊田副武大将から離脱が命じられ、21日、小沢中将は「あ号作戦」を中止し撤退した。東進していた前衛の栗田艦隊も[55]、作戦中止命令を受けて北西に変針した[56]

アメリカ艦隊は20日真夜中から西方に針路を変えて追撃を試みたが、21日午後9時20分に中止した。サイパンへの帰路、脱出・不時着した友軍搭乗員59人を収容した。


注釈

  1. ^ この訓練方法が問題となり、美濃部は第301海軍航空隊司令八木勝利中佐から飛行隊長を更迭されている[27]
  2. ^ ミッドウェー海戦の際にはわずか7機であったものを、戦訓により索敵力を強化したものである。
  3. ^ 21型に現地改修で懸吊架装備をつけて戦闘爆撃機としたタイプであり、後年量産された62型(52丙型の胴体下に250kg爆弾の懸吊架装備をつけた戦闘爆撃機型)とは別機体
  4. ^ 『いざゆけ!ゼロ戦 最強の戦闘機、激闘の伝説 スーパー戦闘機で知る太平洋戦争 ゼロ戦は無敵だった!』(KKベストセラーズ、2007年)230頁によると、「8時20分、前衛部隊の戦艦大和の艦橋で第1次攻撃隊127機が高度4000メートルで前衛部隊に近づいてくるのを発見したが、無線封鎖中の前衛部隊ではこの100機を超える編隊が敵か味方か、判別できなかった。日本海軍では飛行機は味方軍艦上空を飛ばないことになっており、重巡洋艦高雄が味方識別合図を要求するため高角砲4発射ち上げたが、編隊は無反応のまま艦隊の真上に向かって距離1万5千メートルまで接近。大和は敵編隊とみなして全艦に左45°一斉回頭と対空射撃の緊急命令を出し、各艦は回頭と発砲を始めた。日本機編隊は慌てて翼をバンクさせて味方だと知らせたのだが、4機も被弾して落ちていった。」
  5. ^ 1航戦若しくは2航戦所属機を収容したと思われる
  6. ^ 各空母への振り分けは次の通り。大鳳:零戦五二型20機、彗星一一型10機、九九式艦爆8機、天山一二型13機、二式艦偵3機。翔鶴:零戦21機、天山12機、彗星18機、二式艦偵10機、九九式艦爆3機。瑞鶴:零戦21機、天山12機、彗星18機、二式艦偵10機、九九式艦爆3機
  7. ^ 但し6月8日風雲沈没時に戦死
  8. ^ 但し6月8日に沈没
  9. ^ 但し6月9日に沈没
  10. ^ 各空母への振り分けは次の通り。隼鷹:零戦27機、彗星9機、九九艦爆9機、天山6機。飛鷹:零戦27機、彗星9機、九九艦爆9機、天山6機。龍鳳:零戦×21機、天山×11機
  11. ^ 6月8日の春雨沈没時に白浜政七駆逐隊司令が戦死し後任は未着任
  12. ^ 但し6月15日に油槽船清洋丸と衝突して沈没
  13. ^ 正式編成は海戦後の8月15日
  14. ^ 各空母への振り分けは次の通り。瑞鳳:零戦21機、天山9機。千歳:零戦21機、九七艦攻9機。千代田:零戦21機、九七艦攻9機
  15. ^ 6月9日に早波が沈没し折田大佐が戦死。15日付で玉波艦長の青木久治大佐が隊司令に赴任
  16. ^ 但し6月9日に沈没
  17. ^ パラオより合流、19日に分離
  18. ^ タウィタウィで対潜掃討中触礁損傷により全力発揮不能、第二補給部隊護衛へ異動となる
  19. ^ 海防艦はギマラスで待機。
  20. ^ 公刊戦史「潜水艦史」による
  21. ^ アイランドの煙突に命中するも、航行に支障無し。
  22. ^ 500ポンド爆弾を艦橋後部のマスト付近に命中したとしているが乗組員の回想では被弾無し、至近弾によるスプリンターを直撃弾と勘違いした可能性有り。
  23. ^ タウイタウイに閉じ込められた原因としては潜水艦の跋扈が上げられる。泊地を出た途端雷撃される事もあり、そのため、護衛の駆逐艦が損耗した。そもそもタウイタウイ島と、その周辺海域は、南シナ海で通商破壊を行なう米潜水艦航路の途中にあった。(しかし、タウイタウイは結局不運な選定であったことを証明した。当時、ニューギニアにおいて入手した、日本側書類によって、新しい日本の航空艦隊の出現とその進出位置が明らかになると、米潜水艦が大挙してセルベス海やフィリピン諸島周辺に集中行動したので、小澤部隊は訓練や演習の為に錨地外に出動することが殆ど出来無くなった。)[70]

出典

  1. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦付録
  2. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦331頁
  3. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦304-305頁
  4. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦336頁
  5. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦323-325頁
  6. ^ 堀栄三『大本営参謀の情報戦記』文春文庫128頁、戦史叢書12マリアナ沖海戦326-327頁
  7. ^ a b 戦史叢書12マリアナ沖海戦353頁
  8. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦354頁
  9. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦324-325頁
  10. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦388-389頁
  11. ^ a b c 戦史叢書12マリアナ沖海戦390頁
  12. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦432-433頁
  13. ^ モリソン(2003年)、286頁。
  14. ^ a b NHK『証言記録 兵士たちの戦争「マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法」』
  15. ^ モリソン(2003年)、287頁。
  16. ^ a b 戦史叢書12マリアナ沖海戦479頁
  17. ^ a b 戦史叢書12マリアナ沖海戦451頁
  18. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦480頁
  19. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦327-328頁
  20. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦484頁
  21. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦515頁
  22. ^ ブュエル 2000, p. 402.
  23. ^ 井手次郎 1992, pp. 27–28
  24. ^ a b 戦史叢書12 1968, p. 527
  25. ^ a b 伊沢 1975, p. 139
  26. ^ 御田重宝 1991, 電子版, 位置No.2946
  27. ^ 渡辺洋二 2003, p. 40
  28. ^ Operation Forager and the Battle of the Philippine Sea”. Naval History and Heritage Command. 2022年1月21日閲覧。
  29. ^ Operation Forager and the Battle of the Philippine Sea”. Naval History and Heritage Command. 2022年1月21日閲覧。
  30. ^ 戦史叢書12 1968, p. 304
  31. ^ a b 戦史叢書12マリアナ沖海戦524-525頁
  32. ^ a b 戦史叢書12マリアナ沖海戦530頁
  33. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦538頁
  34. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦389-390頁
  35. ^ モリソン(2003年)、284-285頁。
  36. ^ モリソン(2003年)、290-291頁。
  37. ^ a b モリソン(2003年)、292-293頁。
  38. ^ 草鹿 1979, p. 260.
  39. ^ a b 「戦闘詳報.第1機動部隊 あ号作戦(653空.第1機動艦隊司令部.千歳.千代田)(1)」第35画像
  40. ^ a b #小板橋見張員p.84、著者は当時愛宕航海部操舵手。
  41. ^ a b #小板橋見張員p.85
  42. ^ 「昭和19年6月20日 軍艦利根戦闘詳報 第7号(あ号作戦中対空戦闘に対する分)」第11-12画像、安永弘『死闘の水偵隊』344頁、筑摩所属偵察機乗員。山本佳男『巡洋艦高雄と共に』135頁、三連装機銃射手。
  43. ^ #艦爆隊長p.168
  44. ^ #艦爆隊長p.169
  45. ^ #艦爆隊長p.170
  46. ^ #艦爆隊長p.171
  47. ^ #艦爆隊長p.176
  48. ^ 「昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)」第56画像
  49. ^ 「昭和19年6月20日〜昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(2)」第1画像
  50. ^ 「昭和19年6月20日〜昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(2)」第11-12画像
  51. ^ 「昭和19年6月20日〜昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(3)」39頁
  52. ^ 「昭和19年6月20日〜昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(3)」40頁、45-46頁、「昭和19年5月1日〜昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(3)」8頁
  53. ^ 「昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)」第58画像
  54. ^ 池田清『最後の巡洋艦矢矧』(新人物往来社、1998)、85頁
  55. ^ #小板橋見張員p.88
  56. ^ #小板橋見張員p.89
  57. ^ 昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌12~28画像
  58. ^ 「戦闘詳報.第1機動部隊 あ号作戦(653空.第1機動艦隊司令部.千歳.千代田)(1)」第49-51画像
  59. ^ a b c d 戦史叢書12マリアナ沖海戦636-638頁
  60. ^ 辻田真佐憲『大本営発表』幻冬舎新書192-194頁
  61. ^ 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫314-315頁
  62. ^ 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫316頁
  63. ^ 『太平洋戦争と十人の提督』学研M文庫頁289-290頁
  64. ^ 『太平洋戦争と十人の提督』(617頁より)
  65. ^ #戦藻録(九版)319頁
  66. ^ #戦藻録(九版)320頁
  67. ^ 『真実の太平洋戦争』『太平洋戦争と十人の提督』より。
  68. ^ 田中健一「マリアナ沖海戦 作戦指導批判に異論あり」『波濤』110号 1994年1月
  69. ^ 『真実の太平洋戦争』(第二章 数多い誤認と誤解 2 夢に終わったアウトレンジ戦法より 157-158頁)
  70. ^ ニミッツの太平洋海戦史 太平洋戦争と潜水艦 269p/372p〜375pより
  71. ^ 『日本はいかに敗れたか 上』より
  72. ^ 神立尚紀『零戦最後の証言2』光人社NF文庫、pp.113f
  73. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦379頁
  74. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦379-380頁
  75. ^ 川崎まなぶ著『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員 激闘の記録』(海軍が新規搭乗員の大量養成・母艦搭乗員の急速錬成に努力を払ったので、本海戦に参加した全母艦搭乗員の平均飛行時間は、開戦時〜南太平洋海戦までと比べて遜色ないレベルであったという指摘だが、飛行時間の計算は在籍年月から推計したもので根拠に欠ける)
  76. ^ 戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期207頁
  77. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦411頁
  78. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦55、78頁
  79. ^ 内藤初穂『戦艦大和へのレクイエム 大艦巨砲の技術を顧みる』(グラフ社、2008)185頁
  80. ^ turkey shootの意味・使い方”. (株)アルク. 2023年6月13日閲覧。
  81. ^ turkey shootの意味”. NTTレゾナント. 2023年6月13日閲覧。
  82. ^ 戦史叢書 41 P.110
  83. ^ a b c モリソン(2003年)、298-299頁。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マリアナ沖海戦」の関連用語

マリアナ沖海戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マリアナ沖海戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマリアナ沖海戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS