ヘンリー8世 (イングランド王) 人物像

ヘンリー8世 (イングランド王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 06:25 UTC 版)

人物像

ヘンリーが作曲した"Pastime with Good Company"の楽譜、1513年

ヘンリーはルネサンス人としてのイメージを作り上げ、その宮廷は学問と芸術と金襴の陣に代表される華やかな奢侈の中心となった。音楽にも造詣が深く、自ら楽器を演奏し、文章を書き、詩を詠んだ。自ら作曲したとされる楽譜(合唱曲 "Pastime with Good Company" など)が現存する。情熱的なギャンブラーであり、馬上槍試合や狩猟などスポーツにも優れていた。一方でヘンリーはキリスト教にも関心があった。クライスト・チャーチ、ハンプトン・コート宮殿、ホワイトホール宮殿、トリニティ・カレッジなど、現存する多くの著名な建物の建築や改修にも関わった。

ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、ラテン語スペイン語フランス語を理解した。多くの本に注釈をつけ、自らも著作を行った。教会改革の支持を集めるためにパンフレットや講義や演劇を用意させた。

6フィート(約182cm)以上の身長と広い肩幅を備え、スポーツに秀でていた。馬上槍試合や狩猟を催しては、荘厳な鎧を纏って外国大使や領主たちの前に姿を現し、強い印象を与えようとした。だが馬上槍試合で怪我をしてからは著しく肥満したため、廷臣たちもこれをまねて太って見える服装をし始めた。晩年には過食により著しく健康を害した。

統治

テューダー朝の君主は強い権力を有し、外交、宣戦布告、貨幣の鋳造、恩赦、そして議会の招集と解散の権限があった。しかしカトリック教会からの離脱の際に明らかになったように、法律上および財政上の制約を受けており、貴族やジェントリ(郷紳)からなる議会と協力して統治を行わざるをえなかった。ヘンリー8世は官職任命権を用いて、枢密院のような公的な組織と私的な腹心からなる宮廷を運営した。宮廷人の盛衰は激しく、2人の妻に加えて多くの貴族、役人、友人、聖職者らがヘンリーによって処刑された。

1514年から1529年まで内政と外交を取り仕切ったのは、枢機卿であり大法官であったトマス・ウルジーであった。ウルジーは豪奢な館を構えて、王の代理として振舞い、中央集権化を進め、星室庁を強化して刑事裁判を改革した。だが王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚交渉に失敗したため王はウルジーに失望し、長年の奢侈で国庫は空となっていた。ウルジーは逮捕され、病死した。

その後、ウルジーに代わって政府を司ったのはトマス・クロムウェルであった。大陸から戻って法律の専門家としてウルジーの部下となり、その没落後に台頭した。クロムウェルは対話と合意によって行政改革を進めた。多くの役職について、政府の機能を王室から公的な部局に移したが、改革にはヘンリーの支持を必要としたため、一様な移行とはならなかった。修道院解散で修道院の財産を没収して王室に移し、多くの政治機能を小規模で効率的な枢密院に移し、王の財政と国家の財政を分離した。だがアン・オブ・クレーヴズとの結婚への関与がその立場を弱め、次の王妃キャサリン・ハワードの父方の伯父で政敵のノーフォーク公の前に敗れ、 1540年に処刑された。

その他、ヘンリー8世は郵政長官のポストを新設し、ロイヤルメールの起源となった。

財政

ヘンリー8世の治世の財政はほぼ破綻状態であった。父王から相続した豊かな富は、宮廷での奢侈と豪奢な建築に費やされた。テューダー朝の君主は、政府の支出を王個人の収入で賄わなければならず、議会によって承認されなければならない王室領からの税金に頼っていた。治世を通じて収入はほぼ一定であったが、インフレーションと大陸での戦費のために支出に対し不足した。父王と違い、しばしば議会に戦費の支出を依頼しなければならなかった。一方、修道院解散とその財産の没収により、新たな収入を得た。ウルジーは銀本位制から金本位制に移行し、貨幣の質を下げ、クロムウェルは貨幣の質をさらに大きく下げた。名目上の利益は大きかったが、経済は打撃を受け、激しいインフレーションを招いた。

宗教改革

ヘンリー8世は、イングランドをカトリックの国から聖公会イングランド国教会)の国に変貌させた宗教改革の開始者であると一般には考えられている。1527年までヘンリーは敬虔なカトリック信者であったが、王妃キャサリンとの婚姻の無効を教皇に願うも、王妃の甥のカール5世の影響力もあってこれを果たさず、ついには教皇権からの独立に向かったと考えられている。

1532年から1537年にかけ、ヘンリーはイングランド国王と教皇の関係の変革と、イングランド国教会の創設に関わる数々の法令を発布した。イングランド国内の法治を教皇から独立させた上告禁止法、国王をイングランド国教会の唯一最高の首長とした国王至上法などである。ヘンリーはトマス・クランマーをイングランド国教会最高の地位としたカンタベリー大司教につけ、クランマーはこれらの改革を支持した。一方で大法官であったトマス・モアや、ロチェスターの司教にして司祭枢機卿であったジョン・フィッシャーは反対したために処刑された。

クロムウェルによって、当初は軍事費調達の名目で小修道院解散法英語版大修道院解散法英語版など相次ぐ修道院解散令が発令され、800以上の修道院が解散させられ、その財産は王室に没収された。イングランドの土地の5分の1が王室に移動したと言われている。没収された不動産は後に市民に売却されて、土地の流動化につながった。その後も1535年の宗教家鎮圧法英語版などのカトリック信者を抑制し教皇の権力を削ぐ法令が幾度も発令され、カトリック信者たちはヘンリーの娘メアリー1世の世まで静かに身をひそめた。

軍事

スコットランドとの国境に近いベリック・アポン・ツイードおよびカーライル、そして大陸にあるイングランドの領地カレーにおかれた守備隊を除けば、イングランドの常備兵はわずか数百しかいなかった。1513年にフランスに攻め入った時の3千の兵は鎌 (bill兵と弓兵であり、他国は銃兵やパイク兵に移行しようとしていた。だがヘンリーの兵の鎧や武器は新品であり、大砲や攻城砲も備えていた。1544年の侵略の時も同様であった。

ヘンリーは王立海軍の創始者の一人であるとされ、特に軍艦に大砲の搭載を始めたことで知られる。個人的に軍艦の設計に関わり、母港とドックを持つ常設海軍を創設した。ヘンリーの時代に、海軍の戦術は接舷しての移乗戦闘から砲撃戦闘へと進化した。軍艦は50隻に増加し、後にアドミラルティとなる部局を創設して海軍の維持と監督を行わせた。

カトリックからの離脱により、フランスや神聖ローマ帝国のカトリック勢からの侵略の脅威に直面したため、修道院から没収した財産を当てて、イングランド東岸と南岸に防御のための砦を築いた。

アイルランド

1450年当時のアイルランドの分裂状態

ヘンリーの治世まで、アイルランド島は教皇の名目上の宗主権の下にあり、 アイルランド卿を名乗るイングランド王に与えられた知行であると見なされていた。アイルランドの大部分の統治は在地の貴族に任され、ペスト(黒死病)や薔薇戦争の影響もあって、アイルランドにおけるイングランドの勢力は小さくなっていた。アイルランド貴族たちは政争を繰り返し、外国の部隊をアイルランドに呼び寄せ、イングランド王を僭称するヨーク朝の末裔をかつぐ動きもみられ、ヘンリーは支配に苦しんだ。

カトリックからのイングランド国教会の分離を機に、ヘンリーはアイルランドが教皇から独立した王国であると宣言し、アイルランド議会によってアイルランド王に推戴された。アイルランド貴族は土地をいったんヘンリーに献上した後に、改めて知行として与えられることになった。この後、イングランドは武力をもって反乱を鎮圧し、直接支配と入植を進めた。

結婚

  1. キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon, 1487年 - 1536年):1509年結婚、1533年離婚
    はじめアーサー王太子妃。死別後、その弟ヘンリーと再婚。メアリー1世の母。結婚から20年余りを経た後に離婚。
  2. アン・ブーリン(Anne Boleyn, 1507年? - 1536年):1533年結婚、1536年離婚
    エリザベス1世の母。元はキャサリン・オブ・アラゴンの侍女。離婚後に姦通罪近親相姦の罪で ロンドン塔で刑死。
  3. ジェーン・シーモア(Jane Seymour, 1509年? - 1537年):1536年結婚、1537年死去
    エドワード6世の母。元はアン・ブーリンの侍女。ヘンリーの後継者となるエドワードを出産したが、産褥熱により死亡。
  4. アン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves, 1515年 - 1557年):1540年結婚、同年離婚
    ユーリヒ=クレーフェ=ベルクヨハン3世の娘。結婚後6ヶ月で離婚。
    肖像画があまりにも美化されていたため、初対面時にヘンリーが激怒したというエピソードが残されている。
  5. キャサリン・ハワード(Katherine Howard, 1521年? - 1542年):1540年結婚、1542年離婚
    アン・ブーリンの従妹。結婚1年半後に反逆罪で刑死。
  6. キャサリン・パー(Catherine Parr, 1512年? - 1548年):1543年結婚、1547年夫と死別
    学識高く、メアリー、エドワード、エリザベスの教育係も務めた。結婚3年半目にヘンリーと死別。

  1. ^ Henry VIII king of England Encyclopædia Britannica
  2. ^ Scarisbrick, J. J. (1997). Henry VIII (2 ed.). Yale University Press. ISBN 0-300-07158-2, p373-374





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