ブルーノ・セナ 経歴

ブルーノ・セナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 15:12 UTC 版)

経歴

生い立ち

偉大なレーサーであった叔父の影響は大きく、幼少期からF1ドライバーを目指そうと決めていた。

しかし、1994年5月1日サンマリノグランプリでアイルトンが突然この世を去り、さらに追い討ちをかけるかのように翌年には父フラビオ・ラッリがバイク事故で他界したのをキッカケに、母親にモータースポーツ活動を禁じられた。

デビュー

叔父の死後10年経って、彼の生前の友であるゲルハルト・ベルガーらがブルーノの家族の説得に動いたことで、ようやくレース活動を許され、2004年9月にイギリスブランズハッチで行われたレースからフォーミュラ・BMWの最終2イベント(各イベント2レースずつ開催)に出場し、最終イベントでは2レースともフロントローにつけた。

また、マカオグランプリに際しては、併催のフォーミュラ・ルノーに参戦し、それまで同シリーズの車体の運転経験がなかったにもかかわらず、いきなり2位表彰台を獲得し、この計5レースを戦ったのみで、ジュニア・フォーミュラを早々に終えた。

F3、GP2

2005年

イギリスF3に移り、キミ・ライコネンが共同出資者として名を連ねるライコネン・ロバートソン・レーシング(Raikkonen Robertson Racing)に所属した。終盤になって調子を上げ、シルバーストンで開催された第16レースで3位表彰台に立つと、ニュルブルクリンクで開催された第18レースでポールポジションを記録するとともに2位表彰台を得るなど、最後の7レースでポールポジション1回、表彰台3回を記録し、結果、ランキング10位でシーズンを終えた。その後、マカオグランプリにも出場したが、リタイアに終わった。

2006年

2006年F1オーストラリアGPのサポートレースでF3車を駆るブルーノ

2006年も引き続き同チームからイギリスF3に参戦した。

イギリスF3の開幕前に、F1の開幕戦バーレーンGPのサポートレースのひとつとして開催されたワンメイクレースや、F1の第3戦オーストラリアGPのサポートレースのひとつとして開催されたF3レースに出場しており、オーストラリアのF3レースでは、2レース目から4レース目までを連勝で制して4戦中3勝という結果を残し、これが自身のレースキャリアにおける初優勝となった。

2007年

2007年はアーデン・インターナショナルからGP2に参戦し、スペインのレース2で優勝を記録した。

2008年

アーデン・インターナショナルを放出されたため、前年のチャンピオンチームであるiSportに移籍しモナコGPイギリスGPで2勝を上げたがジョルジオ・パンターノに9ポイント届かずシリーズ2位となった。

F1

2009年

2008年のシーズンオフにはF1のホンダチームのテストに参加し、叔父とも縁の深いホンダからF1デビューするのではないかとみられた。しかし、ホンダがF1撤退を表明し、後継チームとして発足したブラウンGPルーベンス・バリチェロの継続起用を選択したため[2]、セナのF1デビューは先送りとなった。

その後、メルセデス・ベンツからドイツツーリングカー選手権 (DTM) へのオファーを受けたが、F1でのチャンスを優先するために断り[3]ル・マン24時間レース及びル・マン・シリーズに参戦していた。

デビューレースにてヒスパニアのマシンF110を駆るブルーノ・セナ。写真はバーレーンGP

2010年

カンポス・グランプリ(後にヒスパニア・レーシング ⇒ HRTに名称変更)からF1に参戦することが決まった。チームメイトはGP2時代の2008年にチームメイトだったカルン・チャンドック

シーズン開幕前にテストを行うことが出来ず、開幕戦バーレーンGPにはぶっつけ本番で出走した。開幕2戦はマシントラブルでリタイアに終わるが、第3戦マレーシアGPで16位に入り自身初の完走を果たした。第7戦トルコGPでは、初めて予選でヴァージン・レーシングルーカス・ディ・グラッシの前のグリッドを獲得。決勝でもヴァージン・レーシングの2台とバトルを繰り広げるが、燃料系トラブルでリタイアに終わった。

第10戦イギリスGPではセナに代わりテストドライバーの山本左近が出走したが、次の第11戦ドイツGPからは再びレギュラードライバーに復帰、予選でロータスヘイキ・コバライネンやヴァージンのティモ・グロックと0.3秒差以内のタイムを記録し自己ベストの21位に入った。第13戦ベルギーGPの予選では不安定な天候の中で数名のドライバーがタイムを上手く出せなかったこともあり自己ベストを更新する20位に入った。

マシントラブルやクラッシュなどにより、第15戦シンガポールGPまでに出走した14レース中9レースでリタイアしたものの、7台がリタイアした第16戦日本GPでは15位、9台がリタイアした第17戦韓国GPは14位といずれも完走して自己ベストを更新する成績を残した。しかし、全体的には完走率が低かったことに加えチーム首脳陣がセナの契約更新を行わない方針にしたため、チームを離れた[4]

ロータス・ルノーGPR31を駆るブルーノ・セナ。写真はヘレスにおけるテスト走行にて。

2011年

1月31日、ロータス・ルノーGPのリザーブドドライバーとして就任する事を発表された[5]ハンガリーGPでは金曜フリー走行を行った。続くベルギーGPでは、同GPとイタリアGPにてニック・ハイドフェルドに変わって出走することが決定し、後にハイドフェルドがチームを離れることに合意したため、残りも全戦で出走することが決まった。

ベルギーGPでは自身初のQ3進出となる予選7番手を獲得したものの、スタート直後にハイメ・アルグエルスアリと接触し大きく順位を落として13位で完走となった。イタリアGPでもQ3に進出し予選10番手を獲得したが、1コーナーの混乱を避けるために大きく順位を落とした。しかしその後は、強い追い上げといくつかのオーバーテイクをするなど見せ場を作り自身初入賞となる9位入賞を果たした。

しかしロータスは翌年のドライバーラインナップはキミ・ライコネンロマン・グロージャンの起用を発表しブルーノは再びレギュラードライバーの座を失った。

2012年

ウィリアムズ・FW34を駆るセナ(2012年マレーシアGP)

2012年のシート争いで残るシートはウィリアムズとかつて所属していたHRTの2つだけであったが、ルーベンス・バリチェロエイドリアン・スーティルとの争奪戦の末、かつて叔父のアイルトンが最後に所属していたウィリアムズのシートを獲得した。これに際し、ブルーノの家族(母親や祖父母)は反対せずむしろ大賛成でウィリアムズの加入を喜んだ。なお、メディアではスポンサーマネーで獲得したと報道されたが、ウィリアムズやブルーノ側はこれを否定した。契約締結に至る決め手となったのはウィリアムズ独自のテストに合格したからだとブルーノは発言している。チームの意向により、金曜日のフリー走行1回目の大半(20戦中15戦)はリザーブドライバーのバルテリ・ボッタスにマシンを譲るという契約になった。

第2戦マレーシアGPでは、赤旗中断までにノーズ交換など2回のピットストップがあり最下位まで落ちてしまうも、その後は順位を上げこの年最高の6位入賞を果たした。第12戦ベルギーGPでは初のファステストラップを記録。クラッシュが目立つチームメイトのパストール・マルドナドに比べると、対照的にレースでの安定感に富み入賞回数では10対5と差を付けたが、予選では1PP含め3位以上5回を記録したマルドナドと比べ最高が9位、5勝15敗と予選では逆に差をつけられた。

シーズン終盤にはヘルメットを叔父似の黄色ではなくオレンジ色のオリジナルデザインに変更した。だが皮肉にも、母国であるブラジルGPでは1周も終えずにリタイアする憂き目にあった。

シーズン終了後、ウィリアムズは翌年のドライバーラインナップとして、マルドナドの残留とボッタスの昇格を発表した。これによりブルーノはウィリアムズを離れることになったが、翌年のF1でのシートは得られなかった。

WEC

2013年よりFIA 世界耐久選手権(WEC)にアストンマーティン・レーシングよりル・マンGTエンデュランスのAmクラスに参戦。初戦のシルバーストンでクラス優勝するなど2勝を上げ個人ランキング8位の成績を残した。2014年も同チームより序盤の2戦にのみ参戦した。

フォーミュラE

2014年よりフォーミュラEにおいてマヒンドラ・レーシング・フォーミュラEチームより参戦[6]。チームメイトはまたもチャンドックとなる。


  1. ^ Wood, Donald (2014年6月15日). “Le Mans 24 2014 Results: Final Complete Leaderboard, Highlights, and More”. Bleacher Report (ターナー・ブロードキャスティング・システム). http://bleacherreport.com/articles/2097709-le-mans-24-2014-results-final-complete-leaderboard-highlights-and-more 2016年2月14日閲覧。 
  2. ^ "ブルーノ・セナ、新ホンダF1のシート喪失に動揺". F1-Gate.com.(2009年3月4日)2013年1月15日閲覧。
  3. ^ "ブルーノ・セナ、メルセデスDTMのオファーを断る". F1-Gate.com.(2009年4月19日)2013年1月15日閲覧。
  4. ^ “ブルーノ・セナ 「F1に残るのは厳しい」”. F1 Gate.com. (2011年1月8日). http://f1-gate.com/senna/f1_10363.html 2011年1月31日閲覧。 
  5. ^ “ブルーノ・セナ、ロータス・ルノーGPのリザーブドライバーに就任”. F1 Gate.com. (2011年1月31日). http://f1-gate.com/senna/f1_10555.html 2011年1月31日閲覧。 
  6. ^ “セナとチャンドックが再会、マヒンドラからFE参戦”. AutoSports web. (2014年5月26日). https://www.as-web.jp/past/%e3%82%bb%e3%83%8a%e3%81%a8%e3%83%81%e3%83%a3%e3%83%b3%e3%83%89%e3%83%83%e3%82%af%e3%81%8c%e5%86%8d%e4%bc%9a%e3%80%81%e3%83%9e%e3%83%92%e3%83%b3%e3%83%89%e3%83%a9%e3%81%8b%e3%82%89fe%e5%8f%82%e6%88%a6 2014年9月14日閲覧。 
  7. ^ “Bruno Senna out to show he is more than just a famous name”. Telegraph. (2010年3月10日). http://www.telegraph.co.uk/sport/motorsport/formulaone/camposmeta1/7407119/Bruno-Senna-out-to-show-he-is-more-than-just-a-famous-name.html 2010年7月28日閲覧。 
  8. ^ “ロータス・ルノーGP、新たに4つのスポンサーを獲得”. F1 Gate.com. (2011年9月7日). http://f1-gate.com/renault/f1_12832.html 2011年9月11日閲覧。 
  9. ^ “ハイドフェルドに落胆するブーリエ”. ESPN F1. (2011年7月25日). http://ja.espnf1.com/renault/motorsport/story/55240.html 2011年9月11日閲覧。 
  10. ^ “Bruno Senna - more than just a famous name?”. Formula1.com. (2009年11月10日). http://www.formula1.com/news/features/2009/11/10214.html 2010年6月30日閲覧。 
  11. ^ “Senna officially unveiled by Campos”. CNN. (2009年11月12日). https://edition.cnn.com/2009/SPORT/11/11/motorsport.f1.senna.campos/index.html 2011年9月17日閲覧。 






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ブルーノ・セナ」の関連用語

ブルーノ・セナのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ブルーノ・セナのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのブルーノ・セナ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS