ブラジリアン柔術 「柔術」という名称を使っている経緯

ブラジリアン柔術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/04 23:15 UTC 版)

「柔術」という名称を使っている経緯

当時、柔道と柔術の区別が曖昧だったからという説

明治時代には、講道館柔道は柔術の一流派とされており[1]、まだ柔術と柔道を明確に区別する習慣がなかった。前田光世が日本を発った時、柔道は嘉納柔術という呼び方をされていたため、「柔術」となったと考えられる。例えば、『坊っちゃん』と『三四郎』は1906年(明治39年)と1908年(明治41年)に書かれたものであるが、嘉納治五郎と親交のあった夏目漱石はこれらの作品で「柔術」と書いている。講道館で柔道を修業した者も自分の技を「柔術」と称することが多かった。戦中まで大日本武徳会の「武道専門学校」(武専)で教授されていた「柔術」も、技術内容は講道館柔道と同じものであった。一方で、研究者の内田賢次は、前田光世については「柔道」と「柔術」をはっきり区別していたと、前田が書いた手紙から読み取っている[2]

前田光世が自粛したという説

「柔術」と名付けられているのは、講道館柔道を離れた身である前田光世が「柔道」という言葉の使用を自粛してブラジル人らに技を教授したからだといわれている。一方で増田俊也は自著で、ブラジルに入る前に前田への講道館からの処分が解け昇段してる、としている[3]

外国では柔術の方が通りが良かったという説

当時外国では「柔術」という言葉が過去に海外へ出た柔道家や古流の柔術家達によってすでに広まっており、通りが良かった面がある。

起源は柔道以外の柔術だったという説

起源は柔道以外の古流柔術または新興の柔術だった、というストレートだが少数派の説である。

前田から直に教わったカルロス・グレイシーやグレイシーを経ないブラジリアン柔術家として知られるルイジ・フランサ・フィリョは、前田は「柔道」ではなく「柔術」とはっきりと言っていた、と証言している[4]。そして、研究者の内田賢次は、前田光世は「柔道」と「柔術」をはっきり区別していたと、前田が書いた手紙から読み取っている[2]

柔道家(当時七段)の石井勇吉は自著で、サンパウロにあるブラジリアン柔術道場アカデミア・デ・ペドロ・エメテリオ柔術は古流柔術の流れをくむ道場だ、としている[5]。石井勇吉の父親は古流柔術天神真楊流の石井清吉柳喜斎源正義であり、五男はエリオ・グレイシーの一番弟子ペドロ・エメテリオのアカデミア・デ・ペドロ・エメテリオ柔術で立ち技の指導員であったチアキ・イシイミュンヘンオリンピック柔道銅メダリスト)である。

また、ブラジリアン柔術の起源が柔道とされるのは前田に柔道以外の柔術の経験がないとされていたのも一因だが、実は前田はロンドンの日本柔術学校 (the Japanese School of Ju-jitsu) で指導員をしており[6]、新興か古流であるこの柔術を修得していた。この道場の設立者は谷幸雄三宅タロー(三宅多留次)である。この柔術のセオリーが記載された両設立者による書籍『The Game of Ju-jitsu』によると、寝技では上の場合は柔道の抑込技状態が有利とされており、特にマウントポジションが有利とされている[7]。バックコントロールやバックマウントについては特に記載はない。つまりは柔道とブラジリアン柔術の中間的なセオリーとなっている。書籍『The Game of Ju-jitsu』の日本語対訳本『柔術の勝負』の副題も『明治期の柔道基本技術』となっていて、この柔術は柔道に近いものであり、ブラジリアン柔術の起源がこの柔術だとしても、柔道とする説ともさほど矛盾はない。監修をつとめた内田賢次は、日本柔術学校の技術的背景について、谷幸雄は柔道(当時初段)と天神真楊流柔術や不遷流柔術などの古流柔術、三宅タローは起倒流竹内流、不遷流で柔道は講道館での調査の結果、段位の取得が確認できなかった、としている[6]。書籍『The Game of Ju-jitsu』に掲載された筆者写真でも谷が黒帯を締めているのに対し、三宅は不遷流免許皆伝でありながら当時の古流柔術の慣習と同様、黒帯を締めていない。両者が経験した不遷流は、寝技が優れている、として知られている流派である。


注釈

  1. ^ 柔道世界選手権に出場経験がある鳥居智男の場合、ブラジリアン柔術を始めた時点で紫帯に昇級している。

出典

  1. ^ 厳密には今昔をとわず「柔道」とは武術の流儀名でも格闘技名でもなく、「道」の名の示すとおり、嘉納治五郎の創作した徳目プログラムを指す。現在「柔道」(講道館柔道)という名で知られまた呼ばれる格技種目は、本来その教材となる(嘉納流の)柔術流儀のことであった。[要出典]
  2. ^ a b 三宅タロー、谷幸雄『対訳「The Game of Ju-jitsu」柔術の勝負』内田賢次(監修)、創英社、三省堂書店、日本(原著2013年8月8日)、3-4頁。ISBN 978-4-88142-811-5 
  3. ^ 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、日本(原著2011年9月30日)、330頁。ISBN 978-4-10-330071-7 
  4. ^ 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、日本(原著2011年9月30日)、329-330頁。ISBN 978-4-10-330071-7 
  5. ^ 『黒帯三代 南米紀行・米洲を征覇して』石井機械製作所、日本。 
  6. ^ a b 三宅タロー谷幸雄『対訳「The Game of Ju-jitsu」柔術の勝負』内田賢次(監修)、創英社、三省堂書店、日本(原著2013年8月8日)、4頁。ISBN 978-4-88142-811-5 
  7. ^ 三宅タロー谷幸雄『対訳「The Game of Ju-jitsu」柔術の勝負』内田賢次(監修)、創英社、三省堂書店、日本(原著2013年8月8日)、88-89頁。ISBN 978-4-88142-811-5 
  8. ^ UAE Jiu-Jitsu Federation”. JJIF. 2020年1月11日閲覧。 “PO Box 110004”
  9. ^ CONTACT OUR TEAM”. AJP. 2020年1月11日閲覧。 “PO BOX 110004”


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