バハマの歴史 バハマの歴史の概要

バハマの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 23:00 UTC 版)

バハマの地図
バハマの衛星写真

バハマの有史時代は1492年10月12日にクリストファー・コロンブスグアナハニ島英語版に上陸したことで始まり、コロンブスは新世界への1回目の航海で発見したこの島をサン・サルバドル島と名付けた。その後、1648年にエルーセラ島でヨーロッパ人による最初の定住がなされた。18世紀の奴隷貿易により、多くのアフリカ人が労働者としてバハマに連れてこられ、その末裔は現バハマの人口の85%を占める。1973年7月10日、イギリスから独立した。

先史時代

タイノ族は500から800年頃、丸木舟イスパニョーラ島またはキューバからバハマに向かった。初期の移住の経路はイスパニョーラ島からカイコス諸島、イスパニョーラ島かキューバ東部からグレート・イナグア島、キューバ中部からバハマ中部のロング島などさまざまな学説が提唱された。ウィリアム・キーガン(William Keegan)によると、可能性の最も高い経路はイスパニョーラ島かキューバからグレート・イナグア島への経路である。一方、グランベリー(Granberry)とヴェセリアス(Vescelius)はイスパニョーラ島からタークス諸島とカイコス諸島、キューバからグレート・イナグア島と2つの経路を主張した[1]

ルカヤン人は最初の植民から1500年頃まで、800年間かけてバハマ諸島で人口増を続け、約4万人まで増えた。バハマの住民が最初にヨーロッパ人と接触したとき、人口密度が最も高いのはバハマ中南部であり、北上するにつれて人口密度が下がる。このことは移住のパターンと、北部諸島の定住時期がより短いことを示している。現代で知られているルカヤン人の集落遺跡はバハマ諸島のうち最大の19島とこれらの島から1km以内にあるキーでのみ存在する。一方、バハマの最南部の人口密度は低いが、これは気候がより乾燥していることが原因とされる(グレート・イナグア島、タークス諸島とカイコス諸島の降水量は年800mm程度で、アクリンとクルック諸島英語版マヤグアナ島でもわずかに高い程度)[2]

1492年、クリストファー・コロンブススペインから旗艦サンタ・マリア、船ニーニャピンタの合計3隻で最初の航海英語版を行い、アジアに直接通じる航路を探した。10月12日、彼はバハマの島に到着、それをスペイン領と宣言した。この出来事はヨーロッパ人にとって長らく米州大陸の「発見」とされた。コロンブスが発見した島はルカヤン人の呼称がグアナハニ島英語版で、スペイン人の呼称がサン・サルバドル島である。コロンブスがはじめて発見したバハマの島の正体については異説もあるが、多くの著述家はサミュエル・モリソンの「ワトリング島」(Watling Island)をコロンブスのサン・サルバドル島とする説を採用した。後にワトリング島が公式にサン・サルバドル島に改名された。コロンブスはさらにバハマ諸島のいくつかの島を訪れた後、キューバ、そしてイスパニョーラ島を訪れた[3]

スペインはバハマ人を奴隷の供給源としてみたほかはあまり興味を持たなかった。ルカヤン人のほぼ全員にあたる4万人近くがその後の30年間にわたってほかの島嶼に連行され、1520年にスペインが残りのルカヤン人をイスパニョーラ島に移住させたときは11人しか残されていなかった。その後、バハマ諸島は放棄され、130年間無人島のままとなった。を産出せず、人口も他所に移されたバハマはスペインにとって用済みであり、名目上は領有を続けたが実質的には放棄した。そして、1783年のパリ条約東フロリダとの交換でイギリスに割譲した[4]

ヨーロッパ人が最初にバハマ諸島に上陸したとき、諸島に森が茂っていたと記録した。サトウキビプランテーション英語版にするために森が皆伐された後は2度と戻らず、再植林もなされなかった。

イギリス人の定住初期

歴史家は長年にわたってバハマが17世紀まで植民化されなかったと信じてきたが、近年の研究ではスペイン、フランスイングランドオランダが植民を試みた可能性が出てきている。フランスは1565年にアバコ諸島英語版で入植を試み、1625年に再度試みた。1648年にはウィリアム・セイル英語版率いる、「エルーセラ諸島のプランテーションに向かう冒険者の会社」(The Company of Adventurers for the Plantation of the Islands of Eleutheria)と呼ばれるバミューダ諸島からの植民者がバハマまで航海して植民地を創設した。彼らは清教徒共和主義者英語版であり、バミューダが人口過多になってきたことと、バハマでは宗教と政治の自由が与えられる上に経済的機会もあったため、バハマに移ってきたのであった。この会社は船2隻あったが、大きい方のウィリアムは北端のエルーセラ島の礁で難破、全ての物資を失った。後にヨーロッパ人、奴隷、バミューダからの元アフリカ奴隷が追加で派遣され、バージニア植民地ニューイングランド植民地英語版からの救援物資も届いたが、エルーセラ植民地の経営はやせた土地、植民者の間の争い、スペインとの紛争により長年不振であった。1650年代中期には多くの定住者がバミューダに戻り、残りの定住者はハーバー島とエルーセラ島の北端にあるセント・ジョージ・キー英語版で社会を形成、1670年には約20世帯がエルーセラに居住した[5]

1666年、バミューダからの植民者がニュー・プロビデンス島に定住した。ニュー・プロビデンス島はすぐにバハマ諸島の人口と貿易の中心地に発展、1670年には人口が約500人になった。エルーセラの住民が主に農民だったのに対し、ニュー・プロビデンス島の住民は(主にスペインの)難破船のサルベージ、製塩、魚、亀、巻貝、龍涎香捕りで生活した。バミューダの農民もニュー・プロビデンス島にやってきて、肥えた土地を見つけた。エルーセル植民地もニュー・プロビデンスでの定住者もイングランド法における地位を与えられておらず、1670年にはカロライナ植民地領主がバハマ諸島の特許状を得たが、領主から派遣された総督は独立性の強いニュー・プロビデンス住民に対する権威を樹立することに苦労した[6]

最初期の定住者はバミューダに住んでいた時代とほぼ同様に生活したが、バハマはヨーロッパとカリブ海を繋ぐ航路に近かったため、バハマ諸島で船が難破することも多く、最も実入りの多い職は難破船の分解業であった[7]


  1. ^ Craton, p. 17; Granberry and Vescelius, pp. 80-86; Keegan, pp. 48-62.
  2. ^ Keegan, pp. 25, 54-58, 86, 170-173.
  3. ^ Albury, pp. 21-33; Craton, pp. 28-37; Keegan, pp. 175-205.
  4. ^ Albury, pp. 34-37; Craton. pp. 37-39; Johnson, p. 3; Keegan, pp. 212, 220-223.
  5. ^ Albury, pp. 41-46; Johnson, pp. 3-4.
  6. ^ Albury, pp. 47-51; Johnson, p. 4.
  7. ^ Johnson, pp. 4-5.
  8. ^ Albury, pp. 51-55; Craton, pp. 70-87; Johnson, p. 6; Woodard, pp. 12-14, 23-24.
  9. ^ a b Albury, pp. 58-68; Craton, pp. 89-90; Woodard, pp. 89-90, 140, 160.
  10. ^ Albury, pp. 69-74; Craton, pp. 93-96; Johnson, pp. 7-8; Woodard, pp. 117-121, 163-168.
  11. ^ Woodard, pp. 226-229.
  12. ^ Woodard, pp. 236-240, 245-247, 259-261.
  13. ^ Woodard, pp. 247-248, 262-267.
  14. ^ Woodard, pp. 268-272, 286, 301-304.
  15. ^ Woodard, pp. 304-310, 315-320.
  16. ^ Woodard, pp. 311-314, 325-328.
  17. ^ a b "Bill Baggs Cape Florida State Park", Network to Freedom, National Park Service, 2010, accessed 10 April 2013.
  18. ^ Gerald Horne, Negro Comrades of the Crown: African Americans and the British Empire Fight the U.S. Before Emancipation, New York University (NYU) Press, 2012, pp. 107-108.
  19. ^ Smith, Andrew. 2009. "Thomas Bassett Macaulay and the Bahamas: Racism, Business and Canadian Sub-imperialism". The Journal of Imperial and Commonwealth History. 37, no. 1. pp. 29-50.
  20. ^ Stacey, C. P. (1955年). “Official History of the Canadian Army in the Second World War- Volume I -Six Years of War”. National Defence and the Canadian Forces. Government of Canada. 2016年7月31日閲覧。 p. 181.
  21. ^ The Origins of Bahamian Aviation - Bahama Pundit”. bahamapundit.com. 2014年12月7日閲覧。
  22. ^ Owen, J. (2008). A Serpent in Eden: 'The greatest murder mystery of all time'. Little, Brown Book Group. ISBN 9780748109739. https://books.google.com/books?id=PrA0BNGP_wsC 2014年12月7日閲覧。 
  23. ^ Higham, Charles (1988). The Dutchess of Windsor: The Secret Life. McGraw Hill. pp. 300–302 
  24. ^ Bloch, Michael (1982). The Duke of Windsor's War. London: Weidenfeld and Nicolson. ISBN 0-297-77947-8, p. 364.
  25. ^ a b Higham, Charles (1988). The Dutchess of Windsor: The Secret Life. McGraw Hill. pp. 307–309 
  26. ^ Bloch, Michael (1982). The Duke of Windsor's War. London: Weidenfeld and Nicolson. ISBN 0-297-77947-8, pp. 154–159, 230–233.
  27. ^ Ziegler, Philip英語版 (1991). King Edward VIII: The official biography. New York: Alfred A. Knopf. ISBN 0-394-57730-2.
  28. ^ Higham, Charles (1988). The Dutchess of Windsor: The Secret Life. McGraw Hill. pp. 331–332 
  29. ^ Ziegler, pp. 471–472.
  30. ^ Matthew, H. C. G.英語版 (September 2004; online edition January 2008) "Edward VIII, later Prince Edward, duke of Windsor (1894–1972)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/31061, retrieved 1 May 2010 (Subscription required)
  31. ^ Highamは辞任日を3月15日とし、ウィンザー公爵が4月5日にバハマを離れたとした。Higham, Charles (1988). The Dutchess of Windsor: The Secret Life. McGraw Hill. p. 359 





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