バニャムレンゲ バニャムレンゲの概要

バニャムレンゲ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/30 01:34 UTC 版)

概要

狭義の意味のバニャムレンゲは上記の集団を指して使われているが、 1990年代以降の東部ザイール・コンゴでの紛争以降、一般的には より広くザイール・コンゴ国内在住のルワンダ人を指して使われることが多くなってきた [5]。 バニャムレンゲとよく似た言葉で、ムニャムレンゲ(Munyamulenge)が 使われることがあるが、前者が複数形、後者が単数形という違いがあるだけである [6]。 バニャルワンダ(Banyarwanda、「ルワンダ人」を意味する複数形の名詞。 北キヴ州に住むルワンダ人や1959年以降コンゴに流入してきたルワンダ人難民を指して使われている。)と共に、 バニャムレンゲをコンゴ国民として認めるかという問題をめぐって、 旧ザイール時代から国内で論争が絶えない。 バニャムレンゲは自分たちがコンゴ国民であると主張し続けているが、 一般には外国人であると見なされている [7]。 北キヴ州ではバニャルワンダの割合が大きく [8]、 政治的にも大きな存在であり、エリートやビジネスで成功した者が多いのに対して [9]、 南キヴ州に住むバニャムレンゲは全くの少数勢力で[10]、 政治的にもキンシャサ政府との 結びつきはなく[10]、貧しく、教育を受けた者の数も少なかった[10]

バニャムレンゲの語源・起源

バニャムレンゲとは、「ムレンゲの人たち」という意味である [11] [10]。(ムレンゲは後述するように土地の名前で、ウヴィラの西側の高原地帯にある[12]。) 牧畜で暮らしており、ルワンダ語を話す[11]。 同じツチ系住民であっても、後述する1964年の暴動を支持した バニャルワンダと自分たちは違うということを政治的に 主張するために自ら「バニャムレンゲ」を名乗るようになった [13]。 同時に、自分たちが外国人ではないと主張する目的もあった[10]。 現在のコンゴ東部にある南キブ州に住む小集団で、 一般的にはコンゴが植民地化される前にやってきたと考えられている。 ただ、その時期についてははっきりしておらず文献によって異なる。 19世紀 [14]あるいは1880年代 [15]と書くものもあれば、 17世紀[16]、 あるいは18世紀から19世紀と書くものもある [17]。 一方で、バニャムレンゲがコンゴにやってきたのは、コンゴが植民地化された 後のことであるという主張の研究もある[18]。 南キブ州にやってきたのは、19世紀の終わりころのことである [19]。 最初は、フレロ族支配地域(Chefferie des Bafulero)のレメラ(Lemera)周辺に住み着いたが、 その後更に西の高地へ進み、1881年から1884年には ヴィラ族支配地域(Chefferie des Bavira)のガリエ(Galye)にたどり着いたものもいた。 この年(コンゴが植民地化された1885年以前であるという点) とたどり着いた場所は、後年政治問題化した、 バニャムレンゲがコンゴ国民として法律で認められるか どうかに関係しており重要である[19]。 第一次コンゴ戦争が勃発する以前は、ブカヴから南に離れた高地に定住していた [20]

バニャムレンゲの起源については、 ルワンダに住んでいた者が移住した家系もあれば、ブルンジが起源であると するものもあり、一定ではない。ルワンダが起源の家系の説明では、 ルワンダのムワミ、ルワブギリ(Rwabugiri、1853-1895 [21])の虐待から逃れるために 19世紀後半になってルワンダを脱出したというものや、それ以前のムワミによる弾圧から 逃れてきた[19]、あるいは1896年のルクンシュ (Rucunshu)・クーデター後の抑圧を逃れてやってきたという[16]。 (1895年にルワブギリが死去した後、王位をめぐる政争が内戦に発展し長期化した [22]。 これは、ルワンダやブルンジでは公には王が後継者を指名しないことが伝統になっていたことが原因である [15]。 2つの家系、アベエガ(Abeega)家とアバニギニャ(Abanyiginya)家の間で内戦が展開され、 1896年にアベエガ家がクーデターに勝利した[22]。 このクーデターでアバニギニャ家や、親アバニギニャ家の者が多数虐殺され、難民となって北部や東部へ逃げ出していった [22]。 ルクンシュという名は、ルワブギリが埋葬された場所にちなんでいる[15]。) バニャムレンゲの大部分はルワンダ起源のようだが、一部にはブルンジ起源の者もいて、 その他にも、シ族(Bashi)が起源の者やコンゴ自由国時代の 「テテラ族(Batetela)の反乱」で奴隷となった者が起源の者もいた [19]

いずれにしても、バニャムレンゲの数は少なく、大部分はツチ族、 一部はフツ族だったが、このフツもやがてツチへ変わっていったため、 グループ内の社会的緊張は消えていった[16]。 なお、1959年1964年1973年にはルワンダ人難民がバニャムレンゲの共同体に流入している [16]

植民地時代の資料や口伝から言えることは、バニャムレンゲは、現在の ウヴィラ(Uvira)地域に住んでいたフレロ族Fulero (フリロ(Fuliro)[23]、あるいは フリイル(Furiiru)と言われることもある)の ムワミの支配下にあったということである[24]

フレロのムワミはルワンダ人に土地を貸し、 その代わりにムワミに家畜を貢物として献上することで [25] 当初、両者の関係は良好だった[23]。 こうして、ルワンダ人は標高1,800メートルにあるムレンゲと呼ばれる土地に 定住するようになった[26]。 ムレンゲはこれらルワンダ人にとって事実上の首都のようになり、 低地に住むフレロはこのルワンダ人をバニャムレンゲと呼ぶようになった [27]。 これがバニャムレンゲという名のそもそもの由来である。

しかし、1924年ころにフレロのムワミ、モコガブウェ(Mokogabwe) が見返りとなる家畜の数を増やした [26] [27] ため両者の関係は悪化した[28]。 1970年代にバニャムレンゲを調査したJ.デペルシン(J.Depelchin)によれば、 この時以来、バニャムレンゲはフレロを信用できない部族だと考えるように なったようだという[26]

イトムブウェ山への移住後・周辺住民との不和

バニャムレンゲはベルギー当局に願い出て、フレロの首都だったレメラ (Lemera)からさらに遠いイトムブウェ(Itombwe)山へ 移住する許可を[27]得た。 イトムブウェはルジジ(Ruzizi)平野の上にあり、標高は約3000m程度 の高原である[16]。イトムブウェは、 いもやとうもろこし、豆の栽培には適した土地である[27]が、 通常の農耕は行えず、バニャムレンゲは 牧畜で生活をした[16]。 バニャムレンゲはイトムブウェへ移動したため、もとのムレンゲにツチ族はいなくなり、 代わって、ヴィラ族が住むようになった[5]

移住するとバニャムレンゲはただちに周辺住民と軋轢を起こすようになった [23]。放牧した家畜が周辺の農地を荒らしたことや [23]、ツチ族が家父長的であったり、 [29] 食べ物が違う、自分達に固有の神話を持っているなど周辺住民と習俗が違ったり[23] 自分たちの風習を固持し周辺住民と交わろうとしなかった[23]こと などが原因である。

移住した当初は自分たちで農耕を行っていたが、しだいに 周辺のフレロをフツ族のように扱おうとし始め、農耕はフレロに行わせ、 自分たちが育てた家畜を道具にして経済的支配を始めるようになった [27]。ただ、ルワンダ本国のツチ族とは異なり、 バニャムレンゲは自分たちの土地を持っていなかったため、フレロをフツ族と 同じ地位に置くことはできなかった[27]

特に、バニャムレンゲの混交のやり方に周辺住民は不満に思っていた ようである[26]。 バニャムレンゲは周辺住民と交わることを嫌い[26][16]、 同族内での結婚を望む者が多かった[26]。 また、特に婚資の問題から、非常に裕福なフレロの男性でないとルワンダ人との結婚が 難しかったことなどから、混交はあまり起こらなかった[26]。 しかし、第2、第3婦人を娶ろうとする場合は、ツチ族以外の女性を 迎えることが多く、その間にできた子供は、ツチ族の間にもうけた 子供よりも低い身分に置かれるなど差別的に扱われたことが 嫌われたらしい[26]。 一方、バニャムレンゲは他部族から差別の対象になった [30]。 「ボー(Bor、ペニスあるいは物を意味する、 この地方のスラング[31])」 と呼ばれたり、ブルンジでは「カジュジュ(kajuju、 この地方に生えるキャッサバに似た植物。 キャッサバと違って食べられない。)」と呼ばれたりした[31]。 バニャムレンゲは、この地域の他の部族と異なり割礼の風習がなかったため、 「カフィリ(kafiri、『皮かむり』という意味)」とも馬鹿にされ、強い屈辱感を 感じた[31]。 「バニャムレンゲ、ルワンダへ帰れ」という歌やその替え歌ではやし立てられたり、 「RRR(Rwandas return to Rwanda、ルワンダ人はルワンダに帰る)」と 呼ばれることもあった[31]

一方で、バニャムレンゲは自分たちの土地の権利、自治の権限を 要求し続けた。これが、彼らの政治・宗教における主要な関心事だった [23]。 植民地時代にベルギー当局は、一時期 バニャムレンゲを長にして、周辺地域の他部族をその管理下に置いたこともあったが、 1952年にはそれを解消している[32]。 後年発生した、バニャムレンゲと周辺住民との対立の大部分は、このような ベルギーの首尾一貫しない政策に起因するという[32]。 一方で、 1944年、ヴィラ族支配地区(Bavira chefferie)内の バニャムレンゲを1つの支配地区にまとめる要求を出したが、ベルギー側に 拒絶された[33]。 ベルギーがバニャムレンゲの自治権を拒絶し続けたのは、 権利を認めるとバニャムレンゲが周辺部族を排除し始めることを恐れてのことだった [23]。 ザイールとして独立した後間もなくの1961年には、バニャムレンゲの自治 を再び持ち出し、ヴィラ族支配地区内のビジョンボ (Bijombo)を1つのグループ(groupement)として 認めるように訴えたが、これも拒絶され、より下位の sous-groupementとしてのみ認められた[33]1969年には、ビジョンボの長としてムニャムレンゲを選んだところ、 それをめぐって解任、再任騒動が持ち上がる[33]など 自治をめぐる問題は今日までトラブルになり続けている[33]

1960年にベルギーから独立した際、 バニャムレンゲはフレロから、ヨーロッパ人と同様、故国へ帰るようにと求められた [34]。 同様の現象は、旧ザイールの他地域 (ルジジ谷(Ruzizi valleyのルンディ(Rundi)族)、 あるいはルバ-カサイ(Luda-Kasai)のルルア(Lulua)族、 ルンダ(Lunda)族)でも生じている[34]

当初、経済的に搾取された存在であっても、フレロはバニャムレンゲとの 友好関係を優先して物々交換を続けた[35]。 しかし、年月が下るにつれ、 フレロは耕作地の減少に悩まされるようになった[27]ため、 隣人であるバニャムレンゲとの友好関係の維持よりも、 自分たちの収益の増大に目を向けざるを得ないようになった。 自分たちの余剰作物を市場で売買するほうがバニャムレンゲとの物々交換よりも 有利になったため、フレロは1972年までにはバニャムレンゲとの交易をやめるようになった [27]。バニャムレンゲは 食料に困るようになり、特に1964年に発生した暴動で家畜を失い [27]、 自分たちで農作業を行うか、労働者として 裕福なフレロに雇われる身になった[36]。 これは、バニャムレンゲにとって屈辱的なことであったようである[36]


  1. ^ T.Turner, The Congo Wars:Conflict, Myth and Reality, Zed Books, London, 2007, ISBN 978-1-84277-689-6, pp.4, 80.
  2. ^ たとえば、T.Turner, The Congo Wars巻頭の地図を参照せよ。
  3. ^ たとえば、G.Prunier, Africa's World War:Congo, the Rwandan Genocide, and the Making of a Continental Catastorophe, Cambridge University Press, 2009, ISBN 978-0-19-537420-9, xxviiを参照せよ。
  4. ^ [1] Report of the Mapping Exercise documenting the most serious violations of the human rights and international humanitarian laws comitted within the territory of Democratic Republic of the Congo between March 1993 and June 2003, Democratic Republic the Congo 1993-2003 (PDF)
  5. ^ a b [2] Report of the Mapping Exercise documenting the most serious violations of the human rights and international humanitarian laws comitted within the territory of Democratic Republic of the Congo between March 1993 and June 2003, Democratic Republic the Congo 1993-2003, note 154, p.71. (PDF)
  6. ^ Jason K.Stearns, Dancing in the Glory of Monsters: The Collapse of the Congo and the Great War of Africa, Public Affairs Books, New York, 2011, ISBN 978-1-58648-929-8, p.98.
  7. ^ T.Turner, The Congo Wars, p.80.
  8. ^ G.PrunierAfrica's World War, p.48.
  9. ^ G.Prunier, Africa's World War, pp.49-50.
  10. ^ a b c d e f g h G.Prunier, Africa's World War, p.52.
  11. ^ a b T.Turner, The Congo Wars, p.4.
  12. ^ M.Mamdani, When Victims Become Killers:Colonialism, Nativism, and the Genocide in Rwanda, Princeton University Press, Princeton, New Jersy, ISBN 0-691-10280-5, p.158.
  13. ^ T.Turner, The Congo Wars, p.86.
  14. ^ T.Turner, The Congo War, p.78.
  15. ^ a b c M.Mamdani, When Victims, p.247.
  16. ^ a b c d e f g h i j G.Prunier, Africa's World War, p.51.
  17. ^ 例えば、Jason K.Stearns, Dancing, p.58.
  18. ^ T.Turner, The Congo Wars, note 16, p.221.
  19. ^ a b c d T,Turner, The Congo Wars, p.79.
  20. ^ a b c d Jason K.Stearns, Dancing, p.58.
  21. ^ Jason K.Stearns, Dancing, p.60.
  22. ^ a b c M.Mamdani, When Victims, p.71.
  23. ^ a b c d e f g h J.K.Stearns, Dancing, p.61.
  24. ^ Turner, The Congo Wars, p.79.
  25. ^ T.Turner, The Congo Wars, p.83.
  26. ^ a b c d e f g h T.Turner, The Congo Wars, p.83.
  27. ^ a b c d e f g h i T.Turner, The Congo Wars, p.84.
  28. ^ Jason K.Stearns, Dancing, p.
  29. ^ T.Turner, The Congo Wars,pp.82-83.
  30. ^ a b c d e f g h i J.K.Stearns, Dancing, p.62.
  31. ^ a b c d J.K.Stearns, Dancing, p.63.
  32. ^ a b c d e f T.Turner, The Congo Wars, p.80.
  33. ^ a b c d T.Turner, The Congo Wars, p.82.
  34. ^ a b T.Turner, The Congo Wars, p.85.
  35. ^ T.Turner, Tha Congo Wars, p.84.
  36. ^ a b c T.Turner, The Congo Wars, p.85.
  37. ^ a b c d e f g h T.Turner, The Congo Wars, p.86.
  38. ^ G.Prunier, Africa's World War, p.116.
  39. ^ a b G.Prunier, Africa's World War, p.114.
  40. ^ a b c d e G.Prunier, Africa's World War, p.49.
  41. ^ a b c d e f g G.Prunier, Africa's World War, p.50.
  42. ^ a b c d e f g h i T.Turner, The Congo Wars, p.87.
  43. ^ a b J.K.Stearn, Dancing, p.64.
  44. ^ a b T.Turner, The Congo Wars, p.118.
  45. ^ a b c d T.Turner, The Congo Wars, p.88.
  46. ^ a b c d J.K.Stearn, Dancing, p.66.
  47. ^ G,Prunier, Aftrica's World War, pp.68-69
  48. ^ a b c d e f g G.Prunier, Africa's World War, p.69.
  49. ^ a b c d e f T.Turner, The Congo Wars, p.89.
  50. ^ a b J.K.Stearns, Dancing, p.94.
  51. ^ J.K.Stearns, Dancing, p.93.
  52. ^ a b c d e f g h G.Prunier, Africa's World War, p.71.
  53. ^ a b c J.K.Stearns, Dancing, p.112.
  54. ^ a b T.Turner, The Congo Wars, p.92.
  55. ^ J.K.Stearns, Dancing, p.111.
  56. ^ J.K.Stearns, Dancing, p.57.
  57. ^ J.K.Stearns, Dancing, p.59.
  58. ^ J.K.Stearns, Dancing, p.58.
  59. ^ J.K.Stearns, Dancing, pp.58-59.
  60. ^ G.Prunier, Africa's World War, p.72.
  61. ^ Prunier, Africa's World War, p.116.
  62. ^ a b T.Turner, The Congo Wars, p.91.
  63. ^ a b c G.Prunier, Africa's World War, p.113.
  64. ^ J.K.Stearns, Dancing, pp.69, 86-90.
  65. ^ T.Turner, The Congo Wars, p.91.
  66. ^ T.Turner, The Congo Wars, p.4.





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