ハプスブルク家
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ギャラリー
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ウィーンにある本拠地ホーフブルク宮殿
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ウィーンにある離宮シェーンブルン宮殿
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ウィーンで革命があった際に避難先となったチロル州インスブルックにあるインスブルック・ホーフブルク宮殿
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ハンガリーの首都ブダペストにあるブダ城
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ハンガリー王の居城であり、ハプスブルク家が住むことが義務付けされたブラチスラヴァ城
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スペイン・ハプスブルク家の墓があるエル・エスコリアル修道院
評価
第一次世界大戦中、ウッドロウ・ウィルソン大統領のアドヴァイザーを務めた情報将校のウォルター・リップマンは、大統領に「ハプスブルク帝国を解体してはならない」と進言し、十四か条の平和原則にも同帝国存続の項を盛り込んだという。オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊して第二次世界大戦が起きたあとには、「これが中欧の政治的均衡を破壊し、ヒトラーへの道を開いた」と主張していた。
脚注
参考文献
- 『歴史群像 No.22 双頭の鷲・ハプスブルク帝国のすべて』学研、1994年
- 瀬原義生『スイス独立史研究』ミネルヴァ書房、2009年
- 下津清太郎 編『世界帝王系図集』近藤出版社、1982年 / 増補版・近藤出版社、1987年、ISBN 978-4772504065/ 増補版・東京堂出版、2001年、ISBN 978-4490204407
- Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little,Brown & Company, 1981.
- 岩﨑周一『ハプスブルク帝国』講談社現代新書、2017年8月。ISBN 978-4-06-288442-6。
関連項目
- ハプスブルク家人物一覧
- ネーデルラント17州、南ネーデルラント
- ブラジル帝国 - 国旗の黄色はハプスブルク家の色に由来する。
- 下顎前突症 - ハプスブルク家の人物によく現れていたことで有名で「ハプスブルクの下唇」(Habsburger Unterlippe)という。
- クレメンス・クラウス
注釈
- ^ 英語での発音は、「Habsburg」:英語発音: [hæpsbɚːg](ハプスバーグ)。
- ^ 例としてスペイン生まれのルイ13世王妃はフランスでアンヌ・ドートリッシュ(オーストリアのアンヌ)と称された。
- ^ 962年 - 1806年
- ^ ハインリヒ2世(1014年 – 1024年)
- ^ エティショは683年ごろ死亡したが、別名をエティヒョ、あるいはアダルリック(アダルリクス)またはアティックという。エティションは踊共二『図説 スイスの歴史』p17.では「エティコン家(エティコーネン家)」または「エティヒョン家(エティヒョーネン家)」と述べている。
- ^ エティション家(エティショーネン家)のノルトガウ伯フーゴ3世の子と推測されている。グントラムの出自については瀬原、『スイス独立史研究』に詳しい考察がある。
出典
- ^ “The House of Austria – the Habsburgs and the Empire”. 2023年1月17日閲覧。
- ^ “house of Habsburg | Rulers, Motto, History, Map, & Inbreeding” (英語). Encyclopedia Britannica. 2021年9月13日閲覧。
- ^ "Habsburger-Gedenkjahr im Aargau", Neue Zürcher Zeitung, (page 17) 23 May 2008.
- ^ art-tv.ch
- ^ “Kanton Aargau” (ドイツ語). 2008年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月16日閲覧。
- ^ Heinz-Dieter Heimann: Die Habsburger. Dynastie und Kaiserreiche. ISBN 3-406-44754-6. pp. 38–45.
- ^ a b ヨーロッパの王朝の断絶における近親婚(英語)
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