ナルヴァの戦い (1944年)
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背景
地形
ナルヴァ周辺の地形は作戦活動において重要な位置を占めていた。ナルヴァは海抜100mを越えることが滅多になく、またナルヴァ川、プルサ川を含む多くの水路がめぐらされていた。また、大半の地域が森林で覆われ、さらに大きな沼地が海抜の低い地区を覆っていた。地形による作戦への影響は陣地構築などにもおよび、沼地の存在により大規模部隊展開は特定地域に限定された[1]。
戦略規模での影響として、幅が狭い道路がペイプシ湖とフィンランド湾の間に存在していたが、その幅45Kmの地域は荒野であるだけでなく、ナルヴァ川によって分断されていた。そして、ナルヴァ・タリン間の主幹道路及びナルヴァ・タリン鉄道といった主要輸送路は海岸線に沿って東西に伸びていたが、この地域で大規模な部隊展開を行うにはこのルート以外存在しなかった[1]。
戦闘前夜
1944年1月14日、ソビエトレニングラード方面軍はオラニエンバウム近辺でドイツ第18軍を押し戻すことを目的としたクラスノエセロ・ロプシャ攻勢を発動、3日目には、ドイツ防衛線を突破、西へ押し戻した。
ソビエト赤軍
1944年までに、ソビエト赤軍が攻勢を開始している間、ソビエト赤軍最高司令部が各方面軍に新たな野心的任務を与えることはかなり日常的なことであった。ソビエト赤軍最高司令部は、ドイツ軍を崩壊させるために激しい圧力が必要であることを理由にその実行を正当化していた。1943年から44年にかけての冬、スターリンは赤軍が戦争開始以来進めていた「広域戦線」戦略の継続を行い、全ての戦線において大規模な冬季攻撃作戦を開始するよう命令した。これは、スターリンが長年となえた主張と調和を見せ、赤軍が全ての戦線においてドイツ軍に圧力を与えたならば、ドイツ防衛線のいずれかの箇所が崩壊することと一致していた。ソビエト赤軍による冬季作戦にはウクライナ、ベラルーシ、バルト海におけるドイツ軍パンター線(en)など、全ての戦線における主要な攻撃作戦も含まれていた[7]。
フィンランド湾とペイプシ湖の間にあるナルヴァ地峡を突破することはソビエト赤軍にとって主要戦略上、重要であった。エストニアにおける作戦の成功はタリンへ海岸に沿って進撃することを可能にしており、ドイツ北方軍集団は包囲されることを恐れ、エストニアから退却せざるを得なくなるはずであった。また、これまでのドイツ軍の進撃によりフィンランド湾東部で動けなくなっていた赤軍バルト艦隊にとって、タリンはバルト海への出口になりうる重要な地点であった[1]。エストニアからドイツ北方軍集団が撤退することにより、フィンランドは空撃、及び陸海空共同の攻撃を受けることになる。このため、ソビエト赤軍がエストニアを通過してプロイセン東部へ侵入する展望が開かれ、それによりドイツの抵抗を崩壊させる見通しがソビエト赤軍最高司令部に示された[8]。レニングラード方面軍司令官、レオニード・ゴヴォロフ及びバルト艦隊司令官ヴラジーミル・トリーブツの参加により、作戦ではドイツ北方軍集団を殲滅する準備が完了していた。スターリンは遅くとも2月17日までにナルヴァを占領することを命令した[9][10][11]。
- "「我が軍が遅くとも1944年2月17日までにナルヴァを占領することは義務である。これは政治的理由だけでなく、軍事的理由を含めて両方で必要である。それは現在、最重要課題であり、諸君が遅くとも示される期間内にナルヴァを解放するために必要な処置全てを保障するよう要求する。」(サイン)I.スターリン"
しかしレニングラード方面軍は期限内にナルヴァを攻略することができなかったため、スターリンは2月22日に新たな命令として、エストニア南部のパルヌの港に攻撃を加えることによりドイツナルヴァ軍集団を突破、そしてエストニアにおけるドイツ軍を分断、さらに2個軍がエストニア南西へ向けて進撃し、ラトビア及びプロイセン東部、中央ヨーロッパへの道を開くことを命令した。2月22日、ソビエト赤軍の攻撃が3週間遅れていたため、ソ連はフィンランドに和平を提示した[11]。フィンランドが和平条件から受け入れがたいと判断している間、フィンランド周辺で行われている戦い(継続戦争)が交渉を長引かせることによりソ連にとって不利な状況になる可能性が存在した。そのため、フィンランドに条件を飲み込ませるためにも、エストニアを占領する必要が存在した[8]。スターリンの望みは先遣部隊が危機に瀕しているレニングラード方面軍司令官への命令であった[12]。戦力強化の後、1944年4月の時点でナルヴァ戦線は東部戦線で最も戦力が集中していた[13]。1944年7月までに詳細なタリン進撃計画が準備されていた[14]。
赤軍の配置
1944年3月の時点で、ソビエト3個軍は最大戦力で集中されていた。ペイプシ湖から伸びるナルヴァ川沿い50Kmに第59軍、その南部に第8軍、第59軍の北方には第2突撃軍がそれぞれ配置されていた。冬から春にかけての作戦の間、ナルヴァ戦線の戦力に関する詳細情報はどんな情報によっても発表されていない。ソビエト赤軍公式記録がロシア人以外の研究者に利用できるようになるか、もしくは発表されるまではソビエト赤軍の戦力を確定することは不可能である[1]。エストニアの歴史家マート・ラール(en)が推測した約200,000名という数字[2]を導き出した定数を満たしていない師団の数から、エストニアの歴史家ハネス・ヴォルター(Hannes Walter)は205,000名と推測した[3]。1944年3月1日現在のレニングラード方面軍の戦闘序列は以下の通りである[15]。
- 第2突撃軍 - イワン・フェジュニンスキー中将
- 第43狙撃兵軍団 - アナトーリ・アンドレーエフ(Anatoli Andreyev)少将
- 第109狙撃兵軍団 - イヴァン・アルフェロフ(Ivan Alferov)少将
- 第124狙撃兵軍団 - ボルドマール・ダンベルク(Voldemar Damberg)少将
- 第8軍 - フィリップ・スタリコフ中将
- 第6狙撃兵軍団 - セミョーン・ミクルスキー(Semyon Mikulski)少将
- 第112狙撃兵軍団 - フィリップ・ソロヴィヨフ(Filip Solovev)少将
- 第59軍 - Ivan Korvnikov中将
- 第117狙撃兵軍団 - ヴァシリー・トルバチェフ(Vasili Trubachev)少将
- 第122狙撃兵軍団 - パンテレイモン・ザイツェフ(Panteleimon Zaitsev)少将
分遣隊
- 第8エストニア狙撃兵軍団 - レンビット・パルン(Lembit Pärn)中将[16]
- 第14狙撃兵軍団 - Pavel Artyushenko少将
- 第124狙撃兵師団 - ミハイル・パプチェンコ(Mikhail Papchenko)大佐
- 第30親衛狙撃兵軍団 - ニコライ・シモニャク中将
- 第46、第260、第261独立親衛重戦車連隊、及び第1902独立自走砲兵連隊[17]
- 第3突破砲兵軍団(3rd Breakthrough Artillery Corps) - N. N.ジダーノフ(N. N. Zhdanov)少将
- 第3親衛戦車軍団 - I. A. ヴォフチェンコ(I. A. Vovchenko)少将
1944年7月のナルヴァ攻勢の初期、レニングラード方面軍は将兵136,830名[18] 、戦車150両、突撃砲2,500門、航空機800機以上が配備されていた[2]。
ドイツ国防軍、及びフィンランド軍
陸軍最高司令部は、ナルヴァ川で戦線を安定させることが重要と判断していた。この地域におけるソビエト赤軍の進撃は、エストニア北岸の喪失を意味しており、そのためフィンランド湾の制海権を喪失、さらにソビエトバルト艦隊がバルト海へ進出できることを意味していた[1]。ゲオルク・リンデマン上級大将は、第11歩兵師団への日々の命令でこう語った[19]。
「 | 我々は故国の辺境に立っており、いかなる種類の撤退も、空と海とを通じて戦争をドイツへと運ぶことになるだろう。 | 」 |
フィンランドがソ連と和平を交渉していたため、陸軍最高司令部はフィンランド軍防衛司令部がフィンランドの防衛線を保持できると判断、ありとあらゆる手段を用いてナルヴァ戦線に注意を払っていた。1944年春、フィンランド軍防衛司令部の代表派遣団がナルヴァを訪問するとドイツ軍はナルヴァ戦線での出来事を派遣団に詳細に知らせた[2]。
ソビエト赤軍のバルト海沿岸への進出はバルト海全体の制海権、及びスウェーデンから鉄鉱石を輸入していたドイツを脅かす可能性が存在した。その上、ナルヴァの喪失は、ナルヴァに隣接していたコフトラ=ヤルヴェ(ナルヴァ沿岸32Km西方)で産出されるオイルシェールから精製される石油がドイツ軍に渡らなくなることを意味していた[1]。ナルヴァの地形は森と沼地が支配、間を縫うように隘路が存在しているだけで、防衛に適していた。また、ナルヴァ川後方に直接町が存在しており、この位置は谷間沿いに北、及び南、両方角に対して影響を及ぼす要塞として理想的であった[1]。
パンター線の北部として知られるこの位置は軍集団司令官ゲオルク・フォン・キュヒラーが防衛陣地を構築したいと要望していた箇所であった。ヒトラーは最初、この提案を拒否、キュヒラーを司令官から更迭、ヴァルター・モーデルを後任とした。モーデルもキュヒラーの提案に同意していたが、モーデルはヒトラーのお気に入りの一人であったため、キュヒラーよりもより多くの自由裁量が与えられた。モーデルはこの自由裁量を駆使して、部隊を後退させナルヴァ川の東岸のイヴァンゴロドに強力な橋頭堡を形成、ナルヴァ川沿いに防衛線の構築に成功した。これはヒトラーをなだめることとなり、その上で川沿いの防衛線を守るためにドイツ軍の標準的処理手順が行われた。その後、1944年2月1日、北方軍集団司令部はスポンハイマー(Sponheimer)集団(2月23日、ナルヴァ軍集団と再改名)を編成、ナルヴァ地峡のフィンランド湾、ペイプシ湖の間に構築されていたパンター線の防衛を行った[1]。
ソビエト赤軍の最初の成功の後の1944年2月8日、スターリンはフィンランド大統領リスト・リュティに和平条件を提示した。2月中旬から4月の間のナルヴァ軍集団の戦術的成功により、フィンランドは1944年4月18日、ソ連との交渉を終了した[20]。
エストニアにおける抵抗運動の目的
ナチス・ドイツ占領中、エストニアの独立を回復する可能性は減少し続けていた。施行中のエストニア憲法に従い、1944年2月14日、会合したエストニアの政治家はエストニア共和国全国委員会を地下組織として設立した。当時、国家元首はエストニア大統領コンスタンティン・パッツが拘束されたため、最後の首相、ユーリ・ウルオツ(en)が憲法上の代行者であった。ドイツが任命したエストニア自治政府は、以前よりハーグ陸戦条約で禁止され、ウルオツが反対しており、また失敗していた民間人に対する動員を試みた[21][22]。1944年2月、レニングラード方面軍がナルヴァ近郊に到着、ソビエト赤軍の進撃が現実の脅威と化した時、ウルオツは方針転換、ドイツ軍の提案を受け入れた。2月7日、ラジオ放送においてウルオツはエストニア人がドイツ、ソビエト双方に対して役立つと結論、さらにエストニアはエストニア人部隊が保持するとほのめかした「・・・私がここで明らかすることが可能で、そして明らかにすることができるより大きく重要なこと」[23]。ウルオツは他のエストニアの政治家らと等しく、いったん戦争が終わったならば、新たにソ連に占領されることを防ぎ、エストニアの再独立を勝ち取るためにソビエト赤軍と戦うことを考えていた[24]。徴兵は国民の支持を受け、動員された38,000名[25]は湾曲的に第20エストニアSS義勇師団と7個国境警備連隊として編成された[26][27]。フィンランド軍に所属していたエストニア人で編成されたフィンランド第200歩兵連隊、武装親衛隊内のエストニア義勇兵、そして以前、ドイツ国防軍に徴用されていたエストニア人らはエストニアへ戻され、合計で70,000名のエストニア将兵が1944年の時点でドイツ軍支配下にあった[22]。
ナルヴァ軍集団の編成
1944年2月、ドイツ軍がナルヴァへ撤退したため、第50、第54軍団とともに第3SS装甲軍団がドイツ第18軍の左側面に位置していた。2月4日、スポンハイマー集団は第18軍指揮下から北方軍集団直轄に異動、適所に配置され、さらに部隊への支援のためにヒトラーは増援を送ることを命令した。2月1日、10,000名以上の将兵で編成されたフェルトヘルンハレ装甲軍団(en)はベラルーシーからタルトゥの飛行場経由でエストニアへ空輸された。さらに1週間後、グロースドイッチュラント師団の第5大隊が戦線に到着した。グネーゼン擲弾兵連隊(ポーランドの交代部隊から編成された特別連隊)はドイツ本国から派遣され、2月11日に到着、さらにその3日後、第214歩兵師団がノルウェーより派遣された。その後、2週間にわたり、第11SS義勇装甲擲弾兵師団ノルトラントを含むドイツ国防軍、エストニア師団、エストニア国境警備隊、エストニア警察大隊が集団に加えられた。その後、オットー・スポンハイマーはヨハネス・フリースナーと交代、2月23日、スポンハイマー集団はナルヴァ軍集団と名称変更された。2月22日、北方軍集団は以下の位置でナルヴァ軍集団の配備を命令した。
ナルヴァ(ナルヴァ北方、及びナルヴァ川東岸のイヴァンゴロド橋頭堡を含む)に第3SS装甲軍団、第43軍団はナルヴァ南方のソビエト赤軍Krivasoo橋頭堡に相対、さらに第26軍団はKrivasooとペイプシ湖の間の地区に配置された。
1944年3月1日現在、軍集団には123,541名が所属し、以下の戦闘序列であった[1]。
- 第3SS装甲軍団:フェリックス・シュタイナー親衛隊大将
- 第11SS義勇装甲擲弾兵師団 ノルトラント
- 第4SS義勇装甲擲弾兵旅団 ネーデルラント
- 第20SS武装擲弾兵師団 エストニア第1
- 第26軍団:アントン・グラッセル歩兵大将
- 第11歩兵師団
- 第58歩兵師団
- 第214歩兵師団
- 第225歩兵師団
- 第3エストニア国境警備連隊(4月15日現在)
- 第43軍団:カール・フォン・オーフェン歩兵大将
- 第61歩兵師団
- 第170歩兵師団
- 第227歩兵師団
- フェルトヘルンハレ装甲擲弾兵師団
- グネーゼン擲弾兵連隊
独立部隊
- 西部地区沿岸防衛:アルフォンス・ルチニー空軍中将 (第2高射砲兵師団の司令部と兼任)
- エストニア連隊レヴァル
- 第3エストニア警察大隊
- 第2エストニア西方大隊
その他の部隊
- Artillery Command No. 113
- High Pioneer Command No. 32
- 第502重戦車大隊
- 第752対戦車大隊
- 第540特別歩兵(訓練)大隊
1944年夏、フェルトヘルンハレ装甲擲弾兵師団と7個歩兵師団がナルヴァ戦線より離脱[2]、将兵22,250名が引き抜かれた[28]。
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