ナルヴァの戦い (1944年)
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戦闘
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橋頭堡の形成
2月1日、ソビエト赤軍はキンギゼップ・グドフ攻勢を発動、第2突撃軍所属の第109狙撃兵軍団は初日にキンギゼップを占領[11]、ドイツ第18軍はナルヴァ川東岸へ撤退を行わざるを得なかった[14]。第2突撃軍の先遣部隊はナルヴァ川を横断、2月2日にはナルヴァ市の南北、西岸でいくつかの橋頭堡の確保に成功した。第2突撃軍はドイツ第3SS装甲軍団の背後でナルヴァ・タリン鉄道を横切り、5日後にはナルヴァのKrivasoo湿原南方で橋頭堡を拡大した。しかしゴヴォロフは増援を受けた小規模なドイツ軍集団を包囲する機会を利用することができなかった。そのため迫りつつあるソ連による再占領に抵抗するため、新たにエストニア人が動員された。同時に、ソビエト第108狙撃兵軍団の部隊はナルヴァ南方120Km地点でペイプシ湖を横断、Meerapaluの村落で橋頭堡を確立した。偶然であるが第45SS義勇擲弾兵連隊(エストニア第1)の第1大隊はナルヴァへ向かい到着した。その後、第44歩兵連隊(東プロイセンの人々で構成されていた)の第1大隊、第1エストニア及び空軍戦隊は2月15日、16日にソビエト橋頭堡を撃破した。ソビエト赤軍のメレクラ(Mereküla)上陸作戦により第260独立海軍歩兵旅団所属の517名らはドイツスポンハイマー集団防衛線後方のメレクラへ上陸した[1][12]。
ナルヴァ攻勢、2月15日-28日、3月1日-4日
ソビエト第30親衛狙撃兵軍団及び第124狙撃兵軍団は2月15日、新たなナルヴァ攻勢を開始した[7]。猛烈な戦いにおいて、スポンハイマー集団は、攻撃を停止したソビエト赤軍に消耗を強いた。両軍は戦力を強化するために戦いを休止したが、ドイツ軍の第11SS義勇擲弾兵師団ノルトラントに所属した新設の第45、第46SS義勇擲弾兵連隊(エストニア第1、第2)は、3月6日までにナルヴァ北方のソビエト橋頭堡を撃破した。新たに到着したソビエト第59軍はKrivasoo湿原から西へ攻撃、ドイツ第214歩兵師団、エストニア大658、第659西方大隊の防衛拠点を包囲した。包囲された部隊の抵抗により、ドイツ軍は利用できる部隊全てを駆使して、ソビエト第59軍の進撃を阻止、退却する時間を確保した[1][12]。
3月6日-24日
ソビエト空軍は空襲を開始、3月6日、ナルヴァの歴史ある町並みは瓦礫と化した。ドイツ空軍及び砲兵による100,000発以上の爆撃、砲撃により、ノルトラント、ネーデルランドからイヴァンゴロドに派遣されていた分遣隊はソビエト第30親衛狙撃兵師団への攻撃準備を行った。激戦は町の北方で開始、そこでソビエト第8エストニア狙撃兵軍団の砲兵支援を受けた第14狙撃兵軍団は橋頭堡を再構築しようとしていた。ドイツ2個エストニア連隊はソビエト赤軍に大損害を与え、攻撃を撃退した[1][12]。
ソビエト空軍によるエストニアの町への無差別攻撃も攻勢の一部であり、エストニア人をドイツ軍から離反させ、ソビエト赤軍側に寝返らせようとした。ソビエト空軍の長距離爆撃により、3月9日前夜、エストニア首都タリンを爆撃(en)、25,000名の市民がシェルターに入ることができず、居住区の40%が破壊され、市民500名が死亡した。しかし、エストニアの人々はソ連の残虐な行為に嫌悪感を持ったため、空襲はソ連の狙いの正反対の効果を生むこととなり、エストニアの男性はドイツの徴兵に応じた[1][12]。
3月17日、ソビエト赤軍の戦車によりAuvere駅が攻撃されたが、ドイツ第502重戦車大隊がこれを阻止した。ナルヴァ攻勢はソビエト赤軍が甚大な被害を受けたため、守勢に転じた1944年3月18日-24日までもう一週間続けられた。このため、ドイツナルヴァ軍集団は主導権を握ることが可能となった[1][12]。
シュトラハヴィッツ攻勢
3月26日、シュトラハヴィッツ戦闘集団はkrivasoo橋頭堡西端でソビエト第8突撃軍の先遣隊を全滅させた。さらにドイツ戦闘集団は4月6日に橋頭堡東端を破壊した。ヒアツィント・シュトラハヴィッツ戦車伯爵はこれまでの成功を受けて、全てのソビエト橋頭堡を排除しおうとしたが、春の雪解けの為に泥濘化、ティーガーI戦車の活動ができず、排除はできなかった[29]。4月末までに、両軍は戦力を消耗、7月下旬まで戦線には相対的な落ち着きを見せた[1][12]。
1944年7月、ナルヴァ攻勢
バグラチオン作戦に伴うベラルーシにおけるソビエト赤軍の進撃は、ドイツ北方軍集団を東部戦線中央部へ、そしてフィンランド、ナルヴァの部隊を押し戻すこととなった。7月のナルヴァにおける戦線を形成するのに十分な兵力がなかったため、ナルヴァ軍集団はナルヴァから16Km西方のSinimäedにある丘で形成された防衛線「タンネンベルク線」(Tannenbergstellung)への撤退準備を開始した。
一方、ドイツ軍の撤退準備を察知していなかったレニングラード方面軍は新たなナルヴァ攻勢を計画していた。フィンランド戦線から派遣された突撃専用部隊がナルヴァ近郊に集中配置されたため、ソビエト赤軍とドイツ軍の兵数・器材の戦力比は4:1になっていた。ドイツ軍が撤退計画を実行する前にソビエト第8軍はAuvere駅で攻撃(en)を開始した。しかし、第20SS武装擲弾兵師団の第1大隊と第44歩兵連隊はソビエト第8軍に大損害を負わせ、攻撃を撃退した。イヴァンゴロドに在住していた「ノルトラント」師団、「ネーデルラント」旅団の分遣隊は7月25日の前夜、静寂に撤退を行った。
7月25日朝、ソビエト第2突撃軍が攻撃を再開するまで、シュタイナーの計画通りに撤退が行われた。280,000発の砲弾、手榴弾の支援を受けた部隊は町の北方でナルヴァ川を渡河した。第1エストニア連隊の第2大隊は撤退している部隊の背後の撤退路を占領しようとしているソビエト第2突撃軍を阻止していた。しかし、7月26日にナルヴァはソビエト赤軍に占領され、さらにドイツ軍はナルヴァからの撤退作戦中、戦術的失敗のために「ネーデルラント」旅団の第48SS義勇装甲擲弾兵連隊「ヘネラル・セイファルト」を失ってしまった[1][12]。
タンネンベルク線の戦い
ソビエト赤軍の先陣、第201、第256狙撃兵師団はタンネンベルク線を攻撃、タンネンベルク線の存在する3つの丘の最東端、Lastekodumägiを占領した。対戦車中隊、第24SS装甲擲弾兵連隊デンマルクらは反撃を行い、次の夜には丘を取り戻した。翌日行われたソビエト戦車による丘への攻撃は第3SS装甲軍団により撃退された。7月28日前夜、第11SS偵察大隊及び第47武装擲弾兵連隊(エストニア第3)は猛烈な反撃を行ったが、ソビエト戦車の砲火の元、エストニア大隊は撃破された。翌日も戦いは絶え間なく行われ、ソビエト2個軍はナルヴァ軍集団を押し戻し、ナルヴァ軍集団は司令部を3つの丘の内、擲弾兵の丘に移さざるを得なくなった[1][12]。
タンネンベルク線の戦いにおける最高潮は7月29日に行われたソビエト赤軍による攻撃で始まった。ソビエト主力部隊がGrenaderimägiで多大な犠牲に苦しんでいる間、ソビエト突撃部隊はLastekodumägiでドイツ軍の抵抗を抑えた。そして、ソビエト戦車部隊は GrenaderimägiとTornimägiの西端の丘を包囲した。それと同時に、ドイツ軍のシュタイナーは残存していた戦車7両を繰り出したが、ソビエト赤軍はこれに驚き、後退した。これはPaul Maitla親衛隊大尉が率いたドイツ軍の軍服を着用した多国籍部隊により激しい反撃が開始されたもので、中央のGrenaderimägiを奪い返した。7月の時点で、ナルヴァ攻勢に参加したソビエト赤軍将兵136,830名のうち、数千名が生き残り、戦車部隊は粉砕されていた[1][12]。
素早く増援を送り込まれたソビエト2個軍は攻撃を継続した。ソビエト赤軍最高司令部は8月7日までにドイツ軍ナルヴァ軍集団の撃破とラクベレ(en)の町を占領することを要求していた。普遍の作戦行動を継続しているソビエト赤軍による多数の試みが、ドイツ軍ナルヴァ軍集団の多国籍防衛部隊を撃破できずにいる間の8月2日、ソビエト第2突撃軍は20,000名にまで戦力を減じていた。8月10日、レニングラード方面軍司令官ゴヴォロフはSinimäedの丘で攻撃を中止した[1][12]。
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