ナルヴァの戦い (1944年)
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その後
バルト海攻勢
9月1日、フィンランドはソ連との休戦を結んだ上で軍事協力を行い、ドイツ軍と戦うことを発表した[20]。9月4日フィンランドはフィンランド湾をソ連の為に解放した。ソビエト赤軍が包囲しつつあるリガにおいて、北方軍集団はアスター作戦においてエストニアからの撤退準備を開始した。使用可能な経路は軍集団司令部の地図上で完全準備されていた[32][2]。9月14日、撤退準備を開始せよという暫定命令が第11SS義勇装甲擲弾兵師団に下された[33]。1944年9月17日、セオドーア・ブールハルディ(en)海軍中将率いる艦船は部隊とエストニア市民の撤収を開始した。6日以内で将兵約50,000名と囚人1,000名が撤収した[34]。エストニアに配置されていたドイツ第18軍はラトビアへの撤退を命令された。
ソビエト第1、第2、第3バルト方面軍は9月14日、バルト海攻勢を開始した。この攻撃は、ドイツ北方軍集団をエストニアで孤立させることを目的としていた。長い議論の後、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはエストニア全土で部隊を完全撤退させることに同意、ソビエト第2突撃軍はエストニア南部のヴェリーカヤ戦線で9月17日、タリン攻勢を開始した。9月18日深夜、ナルヴァ軍集団はタンネンベルク線より撤退を行った。ドイツ第8軍は5時間後、北方軍集団が撤退したことに気づき、エストニアの港およびラトビア国境へ退却、北方軍集団を追いかけた。第2SS軍団が第18軍の後衛を務めるために南へ撤退している間の9月20日までに第3SS装甲軍団はパルヌに到着した[34]。ドイツ軍が撤退したため、ソビエト赤軍は9月22日、タリンを占領するために進撃していた。ソビエト赤軍は9月24日までにハープサルの港を破壊、翌日、ドイツ人は沖合いにあるボルムシ島(en)へ避難した[35]。エストニア本土からのドイツ人の避難は9月25日までに少数の犠牲者を出したのみで完了した[1]。
ソビエト赤軍がムーンスント上陸作戦(en)を行ったが、ドイツ第8軍はムーンスント列島を保持し続けた[36]。バルト海攻勢はエストニア、及びラトビア、リトアニアの大部分からドイツ軍を押し出して終了した。
ドイツ軍のエストニアからの撤退の最中にドイツは何千名ものエストニア人徴集兵を兵役から解放した。しかし、バルト諸国がソビエト赤軍に占領されたため、今度はソ連の命令により、バルト諸国の人々がソ連により徴集され始めた。ドイツ軍、ソビエト赤軍双方で任務に従事するものが居た状態で、多くの人々が徴兵を避けるために森へ逃げ隠れた。
ドイツ北方軍集団は中央軍集団と永遠に切り離された上、ラトビアのクールラント半島に押し込まれ、ここにクールラント・ポケットが形成された。1月25日、ヒトラーはクールラントとプロイセン東部が再接続する可能性がないという暗黙の了解の上で、北方軍集団をクールラント軍集団へと改称した[37]。ソビエト赤軍は部隊がプロイセン東部への活動に集中するため、クールラント・ポケットの包囲縮小を開始した。クールラント軍集団はソビエト赤軍の大きな脅威となる可能性を保持したまま存在し続けた。クールラント・ポケットに対する赤軍の作戦活動は1945年5月9日、クールラント軍集団が降伏するまで続き、降伏後、約200,000名のドイツ軍将兵が捕虜となった。
エストニア政府復興の試み
ソビエト赤軍による再占領を長期に渡りドイツ軍の防衛戦が阻止したことにより、エストニア共和国地下全国委員会が再度のエストニア独立を試みるのに十分な時間を稼ぐこととなった。1944年8月1日、エストニア国内委員会は自身がエストニア最高権威であると宣言、1944年9月18日には国家元首代理ウルオツはオットー・ティーフが新政府を導くよう指名した。政府はラジオにおいて英語で中立を保つことを宣言した。エストニア政府は官報(Riigi Teataja)において2つの版を出したが、これを配布する時間がなく、9月21日、エストニア国内軍はタリン、トーンペア(en)の政府関連ビルを占領、ドイツ軍に立ち去るよう命令を行った[38][39] 。エストニアの国旗は4日後、ソビエト赤軍によって取り除かれるまで「のっぽのヘルマン(en)」塔に掲げられていた。
エストニア亡命政府の存在は1992年に独立を回復するまで、エストニア政府の連続性を保つことに役立ち、ハインリッヒ・マーク(en)(国家元首代行を行った最後の首相)はその証明書を後任のレナルト・メリ大統領に手渡した。
難民
ソビエト赤軍によるエストニア再占領の遅れにより、エストニア人2,500名、スウェーデン人3,700名が中立のスウェーデンへ、エストニア人6,000名がフィンランドへ、それぞれ避難する時間の猶予が生まれた。しかし何千もの避難民を乗せたボート、船舶がバルト海に沈んだ[22]。9月には将兵90,000名とエストニア人、フィンランド人、ドイツ人難民、ソビエト赤軍捕虜85,000名がドイツへ避難した[35]。ここでのドイツの唯一の損失は一隻の汽船のみであり、さらにエストニアの港を使っての海からの避難が行われた[35] が、最高で1,200名の人々がソビエト赤軍の攻撃に倒れた[22]。
フィンランドへの影響
ナルヴァにおけるドイツ軍の長期に渡る防衛は、フィンランドのヘルシンキ、及びその他の都市に対する陸海空共同の侵攻及び空爆のための好ましい基地としてエストニアを使用することを阻止していた。そしてエストニアからフィンランドを襲撃して降伏に導こうと考えていたソビエト赤軍最高司令部の望みは絶たれた。フィンランド最高司令官カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムはエストニアからドイツ軍が撤退した場合に備え、フィンランドがソ連と和平を結ばざるを得なくなると繰り返しドイツに伝えた。このように、ナルヴァでの長期戦はフィンランドがソビエト赤軍の占領を避けた上で、抵抗能力を維持、フィンランドの条件を提案できる状態でモスクワにおいて休戦協定交渉に入ることを可能とした[4][28][11][9][12]。
武装親衛隊に参加したエストニア人の戦後
終戦後、大戦中にドイツ軍将兵として戦ったエストニア人はソ連への裏切り者として裁判で有罪判決を下され、彼らが捕縛された場合、収容所へ送られるか、即座に射殺された。西ヨーロッパ諸国はドイツ軍に所属したエストニア人を追放するようソ連から求められた。しかし、ソ連の要求はスウェーデン、フィンランドを除く大部分の西ヨーロッパ諸国によって無視された。そして、武装親衛隊を犯罪組織と決定付けたニュルンベルク裁判において、このエストニア人徴集兵たちは戦犯から除外された[40]。
「 | 当裁判における国連憲章内での犯罪行為の範囲について宣言する。正式なSSメンバー、あるいは国連憲章第6条によって犯罪とされた行為に権限のために使われた知識をもつ組織のメンバー、そのような犯罪行為に個人的に関わった者が所属したグループを含む。ただし、これらの問題に対して選択の余地がない状態で国によってメンバーにされた者、そのような犯罪を行わなかった者に関してはここから除外する。 | 」 |
1950年4月13日、アメリカの在ドイツ高等弁務官事務局(HICOG)からアメリカ国務長官へ送られたジョン・マックロイ署名の文書において、バルト諸国の武装親衛隊所属部隊の扱いについてアメリカによる判断を明確にした。
「 | 「彼らは「軍事行動」、「義勇兵」、「親衛隊」とみなさない。要するに、彼らは通常、親衛隊員に施される、訓練、強化、思想誘導が行われていない」 | 」 |
その後、1950年9月、アメリカ難民委員会は宣言を行った。
「 | バルト諸国における武装親衛隊の部隊(バルト部隊)はドイツ武装親衛隊から目的、イデオロギー活動、隊員資格からまったく別であると明瞭に思われる。従って、委員会は彼らがアメリカ合衆国に敵対的運動を行っていないと判断する。 | 」 |
最新の発表
1991年独立を回復したエストニア政府は、ナルヴァの戦いにおいてドイツ軍に所属したエストニア人がエストニアの独立のために戦っていたという見解をとった[12]。この姿勢は、ユーリ・ウルオツの徴兵呼びかけとオットー・ティーフの政府の活動への支持に基づいていた。戦いに参加した人々は独立記念日のパレードで行進する権利を与えられた。エストニア共和国のために顕著な功績があると思われる人々は名誉ある装飾で報いられた[2]。1994年、Sinimäedにおいてエストニア国防軍最高司令官の面前で、最初の記念碑が公開された。エストニアの歴史家はナルヴァの戦いを1939年という屈辱の慰めのための、国のためのエストニア人たちの戦いと語る[12]。ナルヴァの戦いに関する書籍もエストニアで出版され始め、また、エストニア人騎士鉄十字章受章者の一人パウル・マイトラ(Paul Maitla)SS少佐の大戦中の日記を基にしたドキュメンタリー映画「Sinimäed」も作成された。第20SS武装擲弾兵師団 (エストニア第1)、及び他のヨーロッパ諸国で武装親衛隊に参加した人々を含むドイツ軍部隊の元将兵300名らの年次集会は毎年7月29日、Sinimäedで開催されている[41]。
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